第40回映画大学

 7月15日16日17日と広島で映画大学があった。今回も多彩な講師で「充実」とまではいえないが、それなりに面白い講座であった。中身の紹介や講演内容については、おいおい書き込んでいくとして、とりあえず講師の写真をアップしておこう。
 全体として多彩でバランスの取れた講師陣、という印象を持った。特に蔵本さんや佐藤さんなど広島に来ないと会えない人もいた。しかし「充実」といえないのは、山田和夫さんとか淀川さんがいなくなって、映画批評から私たちの映画鑑賞運動に対する問題提起がないからだ。今回の佐藤さんは「権威」があるかもしれないが、その任ではない。しかも3.11後の日本を全体的に分析する講座がなかったのも、残念だった。
 映画大学は年中行事で、何度か抜けたものの、40回のうち半分以上は参加している。その経験から言うと、その時期その次期のテーマがあり、核となる講師がいる大学が「充実」していた。
 「一人来て ヒロシマの朝 薄いコーヒー」 
第1講「心の広島革命を!」蔵本順子(序破急社長)

 蔵本さんは、地方の独立座館がどこも苦しい経営をしている中で、映画館を街中で増やすという驚異的なことを実践されている人だ。もちろん映画好きであるが、それ以上に広島がすきという感じで、この中国地方第一の都市を、内面も外形も「レベルアップしたい」という情熱を感じた。そのための映画館である。
 広島カープも大好きで、弱いカープを応援し「負けるにしても、負け方がある」とはげましている。
第2講「映画がほんものになる瞬間」李相日(映画監督)

 映画監督、特に若い監督は呼ばない方がいいように思う。どんなことを考えて撮っているのか聞くのはいいが、映画製作のエピソード、裏話を聞くことが映画大学の主旨に合うのか疑問に思う。
 李相日は兼永みのりさんという若い女性を聞き手に話をしたが、私には退屈だった。
特別講「映画スター看板制作再開!−手書きの映画看板の実演−」
   佐藤定信(手書き映画看板師)


 映画館の看板が手書きのスターたちの顔だったことは覚えている。当然それを職業にしていた人がいたが、映画産業の斜陽化と印刷技術の発達によって、廃業へと追いやられたようだ。
 佐藤さんも、映画館の看板書きから普通の看板屋に変わって、それを引退して、また書き始めたという話だった。
 やはり看板は大きくないと値打ちがない。ポスターの大きいのという程度では魅力はもう一つだ。

 これでもまだまだ。
第3講「『命』と向き合う」堀川恵子(フリーディレクター)
 「永山基準」というのは噂で死刑判決の元になったものというのは知っていたが、その中身は知らない。ましてやそれが抱える本質的な問題など思いもよらない。ただ、私は死刑廃止に賛成していた。
 今回、堀川さんの話を聞いて、マスコミ報道のいい加減さをまたもや確認してしまった。やはり新聞やテレビ(ワイドショーだけではない)の言うことを鵜呑みにすることは、危険すぎると思った。おそらくインターネットも同じようなものだろう。
 いくつかのメディアと多少立場の違う人(信頼の置ける人)の意見を聞かないと物事の本質には迫れない。
 堀川さんには、また来てもらってテレビのドキュメント全体の話が聞きたい。

第4講「震災と貧困から日本を考える」
   湯浅誠(反貧困ネットワーク事務局長)

 話を聞くのはおそらく2度目だと思うが、ひどく話し上手になっている感じがする。それはそうだろう、きっと何百回も話をしているはずだ。しかも彼よりも年上が多いところだろう。
 内容は、日本の実態だが、政府の参与になっている関係で、現在の民主党のていたらくには言及しなかった。貧困の状況について話をしたの人口動態について触れていた。子どもが少ない、結婚をしなくなる状況、それがどんな未来になるかを、聞いていて坦々、という感じがした。
 記憶に残っているのは。大災害は援助を求める人を明らかにする、と言う言葉だ。避難所に最後まで残る人はどこにもいけない人々で、本来なら知らないうちに死んでしまうような人々が、行政や福祉関係者の前に明らかになる、ということだった。それと仮設住宅には集会所が必要というのも、そうだと思った。

第5講「誰かが行かねば、道はできない」木村大作(映画監督)
 タイトルは、魯迅の有名な言葉からとっているという。
 おそらく魯迅のエッセイ「故郷」にある「希望とは、もともとあるともいえぬし、ないともいえない。それは地上の道のようなものである。もともと地上に道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ」という文章だと思う。私も、それを読んだときに、日本ではちょっと違う意味に使われているな、と思ったが、木村さんが言っている意味で、魯迅はそういう意味で、これを使っていないのではないか、とこの講座を聞いて改めて思った。
 木村さんの話が詰まらないということではなくて、映画撮影の一つのエピソードが聞けてよかった、と思うが、それ以上ではない、というだけ。

第6講「映画は教えられるか」
   佐藤忠男(映画評論家、日本映画大学学長)


 残念ながら、予想通り。映画批評に書いたことを訂正することはない、という思いである。
第7講「いま思うこと」山田洋次(映画監督)
 久々に元気な山田監督、という感じでした。今年の3月にクランクインする予定だった『東京家族』を3月11日の大震災を見て、このままでは作れない、と延期したという。この感覚が残っているような話だった。
 映画会社としては大きな損失になる製作延期を、映画作家として選び、それを押し通したことに、何か大きな自信を持たれたようだ。それは私が感じている山田監督の大きさから言えば、当然のように思うが、本人にとって、何を描くかということに対する真摯さを、もしかしたら再確認されたのかもしれない。
 今、NHKのBSでやられている「山田洋次が選んだ100本」の話も、彼が映画監督としての力量を明示するもので、それはとてもいい。
 話の中で、「吹けば飛ぶよな男だが」が好きな映画といってくれたことが、大変よかった。そうなのだ。私も山田洋次監督作品の中では必ず5本の指に入れている。

試写『一枚のハガキ』(監督:新藤兼人

 大竹しのぶを、乙羽信子をイメージしながら撮っていると思う。そういう意味で新藤監督は若い。惚れた女のお尻が忘れられないのだろう。見習いたいものだ。
 映画は怒りとユーモアというものを感じた。戦争に対する怒りだけではなく、不当な圧力が男と女の結びつきを壊すことに対する怒りだ。
 一般劇場で上映されるときには、もう一度見たいと思う。

八丁座」で上映