追悼、山田和夫さん

色々な意味で、恩師といえる人の一人である山田和夫さんが8月11日にご逝去されました。神戸映画サークルの機関誌10月号で追悼文を書きましたので、ここにも載せます。
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 山田和夫先生、永い間ありがとうございました。心からご冥福をお祈りします。ごゆっくりお休みください。山田先生の残された多くの著書とその教えを胸に、私たちは映画鑑賞運動の前進と映画文化の発展のために、いっそう努力していく決意です。
映画評論家、元全国映連顧問
 私たちに最も親しい映画評論家であった山田和夫さんが、八月一一日享年八四でご逝去されました。その思い出を紹介させていただいて、哀悼の意を表したいと思います。
「映画評論家山田和夫」といってもご存じない方もおられると思いますので、簡単に略歴を紹介します。一九二八年生まれの軍国少年東京大学に入り自由映画研究会で活動、業界紙記者を経て評論活動へ。旧ソ連の映画監督S・エイゼンシュテインの研究家として知られ、モスクワ映画祭等に審査員で招聘されています。
平和と民主主義、人権を擁護する立場を明確にした映画評論を貫き、映画鑑賞団体全国連絡会議(三八団体が加盟)の顧問を長く務めていただきました。(詳細は映画批評六号「映画論ノート」参照)
きんつばが大好物
私が山田さんとお逢いした時はすでに五〇前後で、あの丸顔で丸い体形でした。アルコールはまったく駄目で、甘いものと肉が大好きでした。晩年は糖尿病などで食事制限されていたにもかかわらず、「ちょっと食べたい」という気持ちが抜けず、みんなに「だめですよ」と注意を受けるという可愛らしさを持っていました。
神戸に来ていただいた時は、いつもきんつばをお土産に手渡していたのですが、「これが楽しみで来ているんだよ」と喜んでおられました。
その旺盛な食欲が病の原因でもありますが、映画運動の第一線で長くエネルギッシュに活動された力の源でもあったと思います。
山田さんの傘寿のお祝い会を神戸で開いたときは「賞味期限間近」と笑って言われました。でも映画の話は口角泡を跳ばしてしゃべられました。
歯に衣着せぬ
いつも神戸の機関誌を高く評価し、鑑賞批評活動を激励していただきました。個人的には「君の意見には賛成しかねるが」と言いながら全国映連評論賞顧問賞を下さいました。
その存在の大きさは、山田さんの話を聞けなくなった時に気付きました。山田さんの映画評を聞かずに映画雑誌や一般紙の映画評だけを読むと、それらがいかに薄い内容であるかと思いました。
 そして大手映画会社が製作、配給する侵略戦争を賛美する映画や人民のたたかいを愚弄する映画は、厳しく批判されました。一方でたとえ山田洋次作品であっても、言うべきことがあれば(婉曲ですが)指摘しています。
山田さんの特徴は一言で言うと「世界史の中で映画を見ている」感じがします。八〇年代に参加した映画大学(四泊五日)では七コマの講座を持ち、世界の映画を相手に映画時評を展開されていました。
現実と切り結ぶ
山田さんから「今、サークルは必要とされているのか」という問いかけがありました。私たちは人の繋がりをサークルと言う形にしてきましたが、神戸でも個人会員の比率が上がっています。これからはどういう組織や運動を作るべきなのか、社会の変化を把握した問題提起です。その答えを見出せないまま[三.一一]が発生しました。
人類史的な転換の時、山田さんなら何を考えるか。私たちはその志を受け継ぎ、激動する現実を全的に捉えて「映画とどう向き合うのか」を深く考え、運動を多くの人々と進めていきます。