『野火』と『日本でいちばん長い日』

映画サークルの機関誌10月号に投稿しました。
※   ※
戦後七〇年の原点、何が伝わったか
二つの映画
この夏、日本のあり方を大きく変える戦争法案をごり押しする安倍政権に対し、国民の怒りがあちらこちらから噴き出しています。若い人たちが、これを自分達の問題として捉えて、発言しパレード(・・・・)をする姿を見るとまさに「十五年安保闘争」と言いたくなります。
この時期ですから、意識的に『野火』(塚本晋也監督)と『日本のいちばん長い日』(原田眞人監督)を見ました。二つとも、昭和の時代に前作があります。
まず『野火』は塚本晋也監督の勇気に敬意を表します。監督、脚本、主演を務め、全身全霊で作り上げた気迫を、私は感じました。
長年「作りたい」と言う思いがあったそうですが、戦後七〇年と言う節目と、きな臭い世相を意識して製作に踏み切ったのでしょう。
『永遠の0』が大ヒットし日本アカデミー賞を独占する文化的社会的風潮があり、歴史修正主義者の首相に多数の議席を与え、平和憲法が蹂躙されている政治状況の現代日本で、その決断に拍手です。
そして『日本のいちばん長い日』は、敗戦を受け入れる鈴木貫太郎内閣と天皇、軍部の思いと動きを描きました。権力者たちが、国体護持を最も大事と考えていたこと、軍人の影響力が大きいことを明らかにします。
しかし役所広司陸軍大臣阿南惟幾)の熱演は邪魔で、天皇軍国主義国家の本質が薄れています。
この2本、併せてみることで戦後七〇年の原点が伝わってきます。
人間を破壊する
『野火』は、映像に迫力がありアジア太平洋戦争の本質に迫ります。率直な感想は「よく作った」です。
今年の1月に市川昆作品(一九五九年)を見ていたので、どういう話かは知っていました。肉体が切り刻まれるような残虐、残酷な映像が嫌いな私にとっては、積極的に「見たい」という映画ではありませんでしたが、半ば義務感で見ました。
前作が白黒で、これがカラーであることから、七〇年前の戦争をリアルな映像で再現するのは難しいと思っていました。しかしフィリピンの自然、原野や浜辺の美しさと、戦闘シーン、兵士達の悲惨さを、見事な映像で対比させています。満足を得られるものでした。
映画は、アジア太平洋戦争全体、その当時の世界情勢などを紹介する映像もナレーションもなく、最前線の戦場だけを描きます。にもかかわらず、この戦争と日本軍の実相が伝わってきます。
ここが『永遠の0』と違うのです。
『野火』も『永遠の0』も戦場と、そこで戦う兵士を描くだけで、歴史を俯瞰した映画ではありません。にもかかわらず、この違いはなぜでしょう。戦争に対する見方考え方が違う、と言ってしまえばそれまでですが、それが映像にどのように反映されているのか、考えました。
『野火』は、ほとんど戦闘行為がなく、半病人の兵士がフィリピン戦線の密林を歩くだけです。敗残兵たちが、飢餓状態で、ぼろぼろの軍服をまとい、口の開いた軍靴を引きずり、ひたすら日本へ帰りたいと歩き続けます。ヒーロー的な要素が全くありません。
時折挟み込まれる戦闘行為の映像では、米軍機の機銃掃射と砲撃の音が響き渡り、手足が飛び散り、血飛沫が上がります(その映像を見るのが辛い)。さらに飢えた兵士は人肉までも口にした、と描きました。
片や華麗で爽快な空中戦が主である『永遠のゼロ』です。特攻作戦で追い込まれる兵士の苦悩を批判的に描いてはいるものの、映像に血みどろ感、飢餓感がありません。兵士の描き方がきれいです。それが最も大きな違いと感じます。
政権中枢を描くだけでは物足りない
 『日本のいちばん長い日』は前作(一九六七年岡本喜八監督)も見たはずですが、その内容はほとんど覚えていません。同じ半藤一利氏の原作に基づいていますが、映画関係のブログをみると、内容は少し違っているようです。
 前作は文字通り「いちばん長い日」である一九四五年八月十四日〜十五日までを描くのに対し、この映画は鈴木内閣が作られた一九四五年四月以降から八月十五日までを描きました。そして本木雅弘昭和天皇がよくしゃべり、天皇の意思、考え方を見せます。
 映画は、敗戦直前の天皇、総理大臣、陸相、急進派兵士たちの動きを丹念に追い、半藤氏は「『戦争しない国』の原点がその事実の上にあることをあらためて痛感している」というコメントを公式HPに寄せています。
 それは確かに描かれています。日本の敗北が誰の目にも明らかになり、しかも日に日に国民や最前線にいる兵士たちの犠牲が大きくなっている状況であるにもかかわらず、それらに思いを巡らせない愚かな軍人や無責任な政治家が政府の中枢にいたことを描きました。
 しかし、映像的に物足りなさを感じます。
この映画には戦場の映像が出てきません。原爆の惨禍や空襲で逃げ惑う人々の姿が出てきません。「『戦争をしない国』の原点」であるなら、敗戦を決断する人々の「苦悩」を描くだけでいいのか、と言う疑問を持ちました。
前作の六〇年代は、まだ戦争の悲惨さを多くの国民は覚えていました。戦後生まれでも父や母から、戦前戦中の話を直接聞ける時期です。今は違います。戦争中の日本、戦場の状況を肌身で知らないだけでなく、知識としても知らない人間が増えています。
ですから、そういう人々に戦争の実態を伝えるためには、強烈な映像こそが必要だと思います。
東京大空襲で焼け野原になった東京の映像、都心から逃げ出す人々の映像は出てきますが、「苦悩」する政府高官達が死の危機に直面しているわけではないのです。
政府高官や軍人たちが議論している事実、身勝手なクーデターを企てた事実だけではなく、同時期に大勢の人々が犠牲になっている事実を重視するべきだと思います。
敗戦間際にあって、陸軍は「本土決戦」派の急先鋒で、海軍や外務省は「終戦」派と対立したそうですが、この映画では、阿南陸軍大臣の本心は、急進派将校を抑える役割を果たした、という構成になっています。
昭和天皇は、鈴木貫太郎に戦争終結に向けた内閣を組織させ「聖断」によって戦争を終わらせた、と強調しています。それならその前、敗戦は必至と言った二月の「近衛上奏文」に「もう一度戦果を挙げて」と応えたことを、天皇の戦争責任の一端として挿入されるべきです。
映画の力をもっと
平和憲法の最大の危機である現在、政治と社会の根幹にある立憲主義が揺らいでいます。愚かな政治家だけでなく、同志社大学長のようなインテリであっても人類がたどりついた民主主義の重要性を無視する現代日本です。
こういう時代であるから、戦後社会の原点となったアジア太平洋戦争の敗戦、アジアの盟主をめざした大日本帝国の膨張と破綻の歴史を映画のテーマとして取り上げることは重要だと思います。
歴史の断面を描く映画が多数作られることと、『戦争と人間』(山本薩夫監督)のような、スケール大きく歴史を俯瞰する映画が作られることに期待します。