『百枚めの写真〜一銭五厘たちの横丁』

神戸演劇鑑賞会の7月例会です。会報に紹介を書かせてもらいました。担当者で議論したので、これからちょっと変わっています。

いつまでも「戦後」でいたいこの芝居の原作「一銭五厘たちの横丁」を書いた児玉隆也(こだまたかや)さんは、この作品で日本エッセイストクラブ賞を受賞した後、一九七五年三八歳の若さで亡くなっています。
舞台では、その彼が二〇一三年に蘇り「今から四〇年前」の話を始めます。
児玉さんは、なぜ現代に蘇ったのでしょう。彼は私たちに何を伝えようとしたのでしょうか。
九九枚の写真
舞台に映し出される九九枚の家族写真は、アジア太平洋戦争中の一九四三年に、戦場の兵士たちの戦意高揚のために、彼等の留守家族を写し、戦地に送ったものです。
そこに写っているのは、子供と女、老人たちであり、若い男はいません。働き盛りの男たちが抜け落ちています。連続してみていると、なにか不自然さを感じさせます。まさに銃後の家族です。
その撮影を担当した一人、桑原甲子雄(くわばら きねお)さんが写した写真(ネガ)「昭和十八年、出征軍人留守家族記念写真。撮影場所、東京下谷区(現台東区)氏名不詳」が、彼の実家である質屋の蔵に残っていたのです。それは、東京の下町の人々でした。
一九七三年児玉さんは、それを見つけます。
彼は、その写真に当時六歳だった彼自身と、終戦の一月前に死んだ父そして「多くの名もない日本人たちの姿」を見ます。そして、ここに写っている人々の、その後の人生、彼等の昭和史をを捜し当てようと、下町を訪ね歩きます。
生死を分け、人生を変えた戦争と戦後の混乱期、三〇年の時間の中で、彼らはどのように暮らし、どんな思いで生きてきたのでしょうか。
しかし九九枚のうち名前が分かり話を聞けたのは、わずか三分の一程度なのです。
一銭五厘たちの横丁
撮影をした桑原さんは、撮影した彼等家族のことをほとんど覚えておらず、児玉さんは、写真の背景にある暖簾の屋号や用水桶の名前を頼りに、横丁の路地を訪ね歩きました。
「見覚えがない」という人々をめぐっていると、やがて、ぽつりぽつりと「知っている」「それは私だ」という人たちが出てきます。
「何も言いたくない」人もいましたが、戦時下からの三〇年が語られます。「みんな若いね」という声と「みんな死んじまった」という声が印象に残ります。
「一編の戦争体験の手記を残すこともないままに暮らしてきた氏名不詳の人々をどうしても名前のある血の通う人々に戻したかった」という気持ちが、一人ひとりの息遣いや生き様が伝わるような言葉となって綴られます。
竜泉小学校の校庭で写された人々の多くは見つかりませんでした。空襲で追われて学校に逃げ込んだ竜泉町の人々は、神隠しにあったかのように忽然と消えたことが、証言から分かってきます。
それは一日で死者八〜一〇万人、罹災者百万人を出した一九四五年三月一〇日大空襲を始めとする、百回を超える東京への空襲によるものでした。蠟燭屋のトメさんが「まるでこうもりの大群」というB二九爆撃機は焼夷爆弾によって、人口が密集する、東京の下町の住宅と工場を、跡形もなく焼き尽くしました。
そして戦後の混乱期にも栄養失調等によって、体の弱いものから死んでいきました。
舞台では、原作にはない架空の家族、根本家の人々を作り上げました。九九枚の人生が、根本家にまつわる人々の人生とその他の十数人の台詞に託されます。それを聞く度に、父や夫、息子の無事を祈る、写真のまなざしが迫ってきます。
百枚めの写真
九九枚の写真はアジア太平洋戦争の痕跡であり、それぞれの傷を思い出させます。その年月は、もの言わぬ「一銭五厘」の人々こそが戦争の一番近くにいたことを示唆しました。
取材をした児玉さんは新たな「百枚めの写真は撮らせない」という決意を強くします。
彼が写真の人々を捜した一九七三年はオイルショックの年です。「もはや戦後ではない」といわれた時期から高度経済成長を経て、それが破綻した時代です。
 その時代は空襲や戦争を体験した人たちが社会の中心を担っていました。あの戦争でさまざまな体験をし、その思いや考え方に違いはあっても「戦争だけはイヤダ」と記憶に刻み込まれていました。
戦後七〇年となった現代は、戦争を知らない世代が社会の中心になりました。そして戦争の記憶を受け継ごうとしない風潮、戦争の被害と、そして加害の記憶を忘れよう、歪めようという風潮も強くなっています。
現在に児玉さんが現れたのは、百枚めが写される危機を感じ、「それでいいのか」という警鐘を鳴らすためではないでしょうか。