8月例会『野火』

『野火』を担当しました。私は解説を書きました。映画サークルのHPにアップされています。
ここには、友人が書いた「背景」をアップします。
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アジア・太平洋戦争の日本軍
「野火」では、戦線から敗走する日本軍兵士の中で起きた出来事に、衝撃を受けた方もいらっしゃるでしょう。戦争の前線で何が起きていたかは、帰還した兵士が語って初めて知らされることです。多くの兵士は口を固く閉ざしたままですが、大岡昇平は人間を問う作家として、小説という手法で、自らの見聞・体験を公にしました。映画「野火」は大岡の小説をほぼ忠実に映像化した作品です。
大岡昇平は、昭和十四年に神戸で結婚し、兵庫区夢野に新居を構え、その後灘区上野通に転居し、応召までは神戸市民でした。昭和18年にはそれまで勤めていた帝国酸素を退社し、川崎重工に入社。昭和十九年三月に三ヶ月の教育召集を受け、それが終わると六月に臨時召集され、フィリピンのミンドロ島に送られ、第百五師団大藪隊配下西矢隊に属し、サンホセの警備につきました。昭和二十年一月二五日、宿営地がアメリカ軍に襲撃されて捕虜となり、レイテ島の捕虜収容所へ送られ、一年足らずの収容所生活の後、十二月に復員しました。このときの経験をもとに、「野火」や「俘虜記」が書かれたのです。
映画「野火」の日本軍兵士の生態を理解するために、アジア・太平洋戦争時の日本軍を、最近の歴史研究をもとに紹介します。そこから日本軍の組織的欠陥が敗戦の大きな要因であったことが見えてきます。大日本帝国大東亜戦争と呼んだ先の戦争を、今はアジア・太平洋戦争と呼びます。中国大陸・満州の国民党政府軍や共産党八路軍との戦争と太平洋の対米英蘭豪への戦争が同時に進行していたからで、これが戦争の全体の動きに大きな影響を与えていたのです。
戦況の推移
「野火」の背景を理解するために、開戦の年から終戦の年まで、太平洋で戦われた主な戦闘を年表形式で紹介します。
昭和十六年十二月 真珠湾を奇襲攻撃。戦艦に被害を与えたが、基地機能は被害少なかった。日本の潜水艦隊は殆ど戦果を挙げることなく、壊滅
昭和十七年六月 ミッドウェー海戦敗退 空母・艦載機・能力の高い航空搭乗員を失う。
昭和十七年八月 ガダルカナル島の攻防とソロモン海戦で日本軍敗退 戦艦・軽空母・巡洋艦駆逐艦・潜水艦・航空機六百機など失う
昭和十八年三月ニューギニア島の攻防 十万人死者の内九割が餓死 輸送船八隻・駆逐艦・航空機失う
昭和十八年五月 アッツ島守備隊全滅
昭和十九年六月 サイパン島守備隊全滅 初の民間人犠牲 マリアナ沖海戦 空母失う
昭和十九年十月 レイテ沖海戦 連合艦隊壊滅
昭和二十年二月 硫黄島守備隊全滅
昭和二十年四月 沖縄戦 六月守備隊降伏
昭和二十年八月 原爆投下 ポツダム宣言受託
この年表を見ても解るように、太平洋での戦闘で日本軍は連合国軍の反攻を受け、開戦半年後には敗退が始まり、あとは雪崩をうったように、ずるずると退却し続けました。
日本軍の配置 
満州事変以後、中国本土では陸軍の精鋭を貼り付け、対国民党政府との戦争をしつつ、北方のソ連との戦争を想定し、軍備を増強していました。陸軍は南方、本土と比べ圧倒的な軍事力を大陸に割いていたのです。昭和十六年の開戦時で満州と中国に一三六万人、南方に一五万人、本土に五七万人の配置でした。昭和十八年以降南方にも兵力を割きましたが、それでも全体の三割、満州・中国には五割以上の兵力が残留していたのです。
日本軍の規律
昭和十八年以降軍規が低下し、兵士の中では、上官の命令に従わない古参兵や、略奪・性犯罪が多発するようになります。これは、急遽兵力を増大させるために予備役兵や後備役兵、補充兵を投入したため、軍規が乱れ、軍隊内の士気も低下したのでした。歩兵連隊の初年兵千〜千五百人の内、予備役兵や補充兵はその三分の二から四分の三で現役兵は二百人内外という陸軍省軍事課長の記録があります。さらに幹部の現役将校の比率は開戦前の昭和十四年で三六%、終戦時の昭和二十年には十五%にまで減少しています。その他は予備役や幹部候補生で補填しましたが、指揮、統率力が低く押さえのきかない将校が増加しました。
日本軍の構成
昭和十三年以降、徐々に兵力の拡大が図られ、戦況が悪化し始めた昭和十八年以降、毎年陸軍は百万人、海軍は四十〜五十万人増加し、昭和二十年には陸軍五五〇万人・海軍一六九万人となりました。戦場へは、二十〜二二歳の現役兵のみが送られました。しかし戦線の拡大とともに、年齢も高く、訓練も不十分な予備役兵や後備役兵、補充兵まで動員されました。大岡昇平はまさにこの補充兵として、戦場へ送りこまれたのです。昭和十九年、二十年には、朝鮮・台湾の植民地兵まで動員されました。
このため兵士の体力が低いもの、肉体的精神的に病弱なものも戦場へ送られることになり、兵士としての熟練度も低く、士気もふるわず、戦意も低く、日本軍は内部から弱体化していきました。戦場の日本軍のこのような実態が、戦いの帰趨を決めたと思われます。
前線の日本兵
「俘虜記」にも描かれていますが、戦わずして、飢えとマラリアで命を失う兵隊が続出しました。「野火」の中にも描かれた極限状況の中で、倫理感も喪失し人間性が荒廃し、生き延びることだけを考える兵士もいたと思われます。医薬品、食料の補給が途絶え、体力を消耗し、死亡した兵隊がいかに多かったか、がダルカナル戦の例を引くと、死者二万千人の内訳は、直接の戦闘による死者は約三割、残りの七割は、栄養失調、マラリア、下痢・脚気による死亡でした。なお、ニューギニア戦の餓死者は九割でした(年表参照)。
中国戦線でも食料支給は一週間分のみで、他は現地調達という指令でした。中国人家庭を襲い、食料や家畜を略奪、強姦などの性的犯罪も行った日本兵の実態が知られています。
日本軍の戦略と作戦
海軍はアジアでは、インドネシアの石油資源を確保し、太平洋でのアメリカの影響を排除するため、アメリカを攻撃し、陸軍は中国東北部満州への影響を取り除くため、ソ連を攻撃するという戦略はありましたが、陸軍・海軍の思惑は別々で、戦争遂行の統一的な戦略もなく、責任を持ち、それを統括する指導者もいませんでした。
海軍はミッドウェー海戦ソロモン海戦マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦で敗退し、制海権を失い、原材料の輸送や兵員輸送、前線の部隊への補給もできない状態でした。敵艦隊壊滅を主目的に置く前時代的な作戦の頑迷さが仇となり、情報収集能力、作戦立案能力、装備開発力、輜重能力等において米軍に劣り、最後には特攻のような非人間的・絶望的な攻撃が選択されましたが、敗退しました。
陸軍でも、戦況の打開と無関係なインドのインパール攻略のような無謀な作戦が強行され、五万人の兵を失いました。
おわりに
アジア・太平洋戦争の戦死兵二三〇万人、上層部の誤った作戦で、或いは援護もない守備隊員として、また撃沈され海没し、病気に罹り、餓えで、命を落とした兵士たち。先の戦争の実態を知り、戦争を起こした指導層の考えを知り、戦争を起こさない力とすること。これが兵士たちの死を無にしない態度だと思われます。合掌。(辺)
参考文献
加藤陽子満州事変から日中戦争へ』2007年 岩波新書
吉田裕『アジア・太平洋戦争』2007年 岩波新書
大岡昇平』1969年 新潮社