『シン・ゴジラ』『太陽の蓋』

映画サークルの機関誌1月号に、標記の映画の批評を書きました。ここに載せませます。
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想定外の怖さがない
記録的なヒット作品
 二〇一六年は生涯で初めて年間映画鑑賞本数が百本を超えます。ここまでくると観たい映画は大体観ることができました。そして社会的な現象のように大勢が観ている映画も観ることができました。
シン・ゴジラ』(興収七五億円)と『君の名は。』(興収一八五億円)がそれです。
君の名は。』はアニメーションであり、若い人が多く見ているようですが、ご都合主義的なストーリー展開で、私はちょっと納得できないので評価できません。
時間と空間を隔てた男女の人格が入れ替わるという超常現象に見舞われた二人が、戸惑いながら、「運命的な出会い」をそのまま受け入れます。彼らは一度も直接出会うこともなく、恋愛感情に入り、そして二人の思いと行動が歴史までも変えるという物語です。
二人の心の変化が描かれていないと私は思います。男と女がお互いに惹かれあっていく様がありません。それがなくても「運命的」と若者は納得するのでしょうか。
シン・ゴジラ』は新聞、雑誌の社会面のコラム等で多く取り上げられました。ゴジラの出現に対する国家・行政機構の動きが、巨大災害、三.一一(東日本大震災福島原発事故)の時のそれであると、映画評論家ではない識者が書きました。「政治的ドラマ」という評価が日頃はあまり映画を観ない、ゴジラファンではない中堅男性会社員を映画館へと誘ったのではないか、と思います。

ゴジラ映画ですが、ゴジラよりもゴジラ退治で動く人々に焦点をあてて描かれます。彼ら政治家や高級官僚が主役の群像劇です。それは「戯画化されたリアリティ」と評価され、臨場感があると言われています。
しかしその根本的なところで私は「違うな」と思います。結論を先に言えば、中心人物から非常事態に向き合う責任感は感じられても、「恐れ」がありません。ゴジラ=想定外に対し「人知が及ばない」怖さが感じられません。
シン・ゴジラ』は大ヒットしていますが、よく似た感じの映画に三.一一直後の官邸を実録風に描いた『太陽の蓋』があります。こちらも私が見たときは満席でしたが、元町映画館ではとても大ヒットとは行きません。
でも映画としてはこちらのほうが好きです。「想定外」に対する政権中枢の愚かさと虚しさを感じます。形はフィクションですが官邸の実際の動きだろうと思いました。
二つの映画を並べながら感想を書くことにします。
シン・ゴジラ』の位置
 一九五四年三月にマグロ漁船第五福竜丸が太平洋上で米国の原水爆実験による「死の灰」を浴びるという事件が発生します。戦争の傷跡も生々しい時代です。日本人の戦争や原水爆に対する怒りが大きく「核兵器をなくせ」という原水禁運動も日本中に広がりました。
それをヒントに原水爆実験が生んだ怪獣ゴジラが、同年十一月に初代『ゴジラ』としては公開されます。
 それ以後のゴジラシリーズ、ちょうど私が見はじめたころ、六〇年代のゴジラは悲劇の悪役ではなく「シェー」(赤塚不二夫の漫画「おそ松くん」のイヤミのギャグ)をするような「アイドル」、宇宙怪獣キングギドラから地球を守るヒーローへと変貌していきます。
今から見れば、原発の「安全神話」が社会全体を抑え込んでいくとともに核や放射能の問題を告発する姿勢からは離れていったように思います。
ところがこの三.一一後に作られた『シン・ゴジラ』は核廃棄物を体内に取り込んで生まれた「超生物」と位置づけられます。ゴジラの原点に返って、核兵器だけでなく「平和利用」であっても人類が核を取り扱うこと自体の是非を感じます。
多くの識者が言うように、映画の企画段階から福島原発事故の戯画化を狙っています。タブーが打ち破られた三.一一後であるから作ることが出来た映画です。
 『シン・ゴジラ』はゴジラが何を考えているのかは、一切わからないように作られています。まさに巨大自然災害、原発暴走の象徴のようです。
ゴジラ映画に登場するゴジラは映画によって違います。体長も初代は五〇mで『シン・ゴジラ』では一一八.五mとなっています。首都の超高層ビル群の中でも見劣りはしませんが、動きは鈍重です。
『太陽の蓋』の肝

 東北地方太平洋沖を震源とするマグネチュード九の大地震が発生したのは、二〇一一年三月一一日一四時四六分五秒です。最大震度七、最大遡上高さ四〇mを超える大津波が東北地方の太平洋沿岸の町を襲いました。死者一万八千人を超えました。
さらに福島第一原発が破壊されました。メルトダウンしていたことが後に明らかにされましたが、「偶然の幸運」があって現在の状況で止まっています。吉田原発所長が一時は覚悟した「東日本が壊滅」の危機があったことは間違いありません。
 まさに未曾有の災害です。そのときの政権、民主党菅直人首相を中心とした官邸の対応を描いたのが『太陽の蓋』です。政治家は全て実名ですが、東京電力は会社名も含めて全て仮名となっている映画です。
 この映画で印象に残るのは、テレビが映す原発の異変を見るたびに「聞いていないよ」と呻くような官房長官の悲鳴です。東電から正確で詳細な情報が官邸に上がっていないことが描かれます。
現実の地震直後ではテレビの前で見る枝野官房長官の「ただちに・・・はありません」と言う言葉に「無責任なことを言うな」と怒りを覚えたものです。
 しかし一旦生じた原発事故に対して、権力からの支持だけではそれを封じ込めることはできません。官邸は混乱しました。住民避難についても、最前線の市町村との連携はうまくいかず、不手際がたくさんありました。
観た後、映画の内容は消失して、虚しさだけが伝わってきました。
その後の選挙で民主党に支持が戻ってこない一因は、三.一一に際しての対応の拙さによって国民の信頼を失ったことです。厳しい批判です。しかし原発政策の大半の責任は自民党にあります。
 この映画を観ながら「安全神話」で社会を縛り、言論を弾圧してきた人々が今でも政、財、官、学、労、司そして言論等のトップに居座っていることを考えました。
戯画化された現実
 『シン・ゴジラ』の前半は、「想定外」のゴジラ出現に混乱と停滞、無意味な会議を繰り返す政府を描きます。自衛隊在日米軍の通常兵器でゴジラを攻撃しますが、簡単に跳ね返されました。ついに米国主導の国連が核兵器の使用を決定します。
ゴジラとの戦闘に巻き込まれて、政府首脳が死亡した後半から、若手政治家をリーダーにハズレの官僚、科学者のチームがゴジラに向き合います。そして彼らの指示で政・官・業の「日本の総力」を結集してゴジラを凍結させました。
映画は「日本=現実、ゴジラ=虚構」として、ゴジラに振り回される日本を描きます。ゴジラと言う想定外に対し、先頭に立つのは若手政治家です。
若手政治家と言えば小泉進次郎等の二世三世議員であり、松下政経塾出身、自民党「文化芸術懇話会」を連想します。彼らが想定外に対峙すると思うと、目の前が真っ暗です。さらに彼らが「この国はまだまだやれる」というと、背筋が寒くなります。
戯画化された現実とはこれかと思い、私は嫌悪感を持ちました。
『太陽の蓋』が現実だとすれば『シン・ゴジラ』は虚構です。現実からはむなしさを感じましたが、事態の本質に迫っています。虚構にも大東京に聳え立つ巨大な凍結したゴジラからむなしさは伝わってきます。
しかし虚構の役割は真の意味の想定外、人知を超える恐怖を描くことだと私は思います。残念ながらそれはありません。