「カンボジアの農村と移動映画館」

11月8日(水)に標記のタイトルで、市民映画劇場11月例会『シアター・プノンペン』の例会学習会を行いました。講師で来ていただいたのは、神戸大学国際文化学科2回生の薬師寺沙彩さんです。NPOワールド・シアター・プロジェクトの1員です。
標記の通り、カンボジアの農村を回って映画を上映している団体です。今はカンボジアがですが、発展途上国の映画を見られない地域に映画を届けることが、この団体の目標です。
『シアター・プノンペン』のことや監督のソト・クォーリーカーさんとも関係あるようです。


薬師寺さんから、カンボジアのこととカンボジアの映画状況を話していただきました。
大枠は、機関誌に載せた解説と背景に重なりますが、現地に行ってならではの話もたくさんありました。
まず子どもたちが可愛いそうです。愛嬌一杯で歓迎されて、日本から持って行った色紙や縄跳び、その他オモチャの類をとても喜んでくれたと言います。
日本とカンボジアの関係で言うと、直行便がないそうです。でもカンボジア人は日本のODA(政府開発援助)に感謝していて、お札に日の丸が入っているといいます。
映画ではカンボジア人はホラー映画が好きだそうです。
学習会の後、てふてふでカンボジアビールを飲み、カンボジア料理を楽しみました。
市民映画劇場は今週11月10,11,12日と新開地のKAVCで上映します。詳細は映画サークルのHPをご覧ください。
https://kobe-eisa.com/
ここに日程と解説があります。背景は載せていないのですが、私が書きましたので、以下に載せておきます。興味があれば読んでください。
※  ※  ※  ※
現代のカンボジア基礎情報
国名:カンボジア王国
面積:一八.一万平方キロ(日本の約半分)、人口:約一五百万人、ピラミッド型で二四才以下が半分以上を占めています。
政治体制:立憲君主国で国会は二院制。現在はノロドム・シハモニ国王、フン・セン首相(人民党)が最高責任者で、資本主義経済体制となっています。地方自治制度も整っており、地方政府は首都プノンペン(一七〇万人)と二四州、その下に区・市・郡、そしてコミューン、サンカットという基礎的自治体の三層構造となっています。
民族:クメール人が九〇%で、公用言語もクメール語識字率は約八割と向上してきていますが、義務教育は九年制で就学率は高いものの貧困のため退学率も高く、卒業できるのは半分程度です。山岳部にチャム族など少数民族が二〇以上います。信仰の自由はありますが、九〇%が上座仏教徒(日本の仏教と異なり修行僧を中心とする「出家主義」。スリランカ、タイ等の東南アジアで信仰されている)で国教となっています。
地理:インドシナ半島の国、南はシャム湾に面し東はベトナム、北はラオス、西はタイに囲まれており、国の中央を東南アジア一の大河メコン川が流れています。
気候:熱帯モンスーン気候、乾季(十一月〜四月)と雨季(五月〜一〇月)に分かれ、十二月〜一月が最も涼しく、三月〜五月が最も暑い。雨は一日中降ることは少なく、夕方から約二〜三時間スコールが降る事が多い。平均気温二七.六℃、年間平均湿度七六.八%、年間平均降水量一三二〇mmです。中央の平地で稲作文化が発達し、現在でも農業がGDPの一/三を占めています。
経済力:GDPは一九〇憶ドル(世界一一一位)、一人当たりのGDPは一二百ドル(一五六位、日本の約一/三〇)で最貧国の一つですが、アジア通貨危機(一九九七年)、リーマン・ショック(二〇〇八年)を経て、経済成長率は二〇一一年以降、七%以上と高成長を続けています。最近は富裕層が出てきました。最低賃金も最近の四年間で二倍になっています。通貨はリエルです。
産業:農業、観光、縫製業が三大産業となっており、特に観光業はGDPの一五%を占めると言われ、世界遺産アンコール・ワット等が人気で、海外からの観光客は二〇〇八年の二〇〇万人から二〇一五年四五〇万人と倍増しています。日系企業の進出は、経済特区などで二〇一一年以降、顕著になりました。二〇一四年にプノンペンイオンモールが出店し、翌一五年には日本人学校が出来ました。カンボジア日本人商工会には一八〇社が加盟しています。(Q)
簡単なカンボジア近現代史(年表参照
フランス植民地以前
最盛期にはインドシナ半島の大半を支配し、アンコール・ワット等多くの寺院を建造したアンコール朝は、一五世紀以降に衰退し、隣国のタイやベトナムに侵略、支配されます。
一九世紀、インドシナに侵攻してきたフランスに対し、タイ、ベトナムの二重支配を逃れるために、保護国なることを申し出ました。
フランス植民地(一八六三年)〜第二次世界大戦第二次インドシナ戦争
フランスはカンボジアベトナムラオスとあわせたインドシナ連邦として植民地支配を強化します。アジア太平洋戦争中は日本に占領されますが、戦後、帰ってきたフランス軍を相手に第一次インドシナ戦争を戦い、一九五三年カンボジア王国(シハヌーク国王)として独立しました。
六〇年から今度は米国がベトナムを分断し、第二次インドシナ戦争(ベトナム戦争)が始まります。戦火はラオスカンボジアへ拡大し、シハヌーク国王は反米政策をとりベトナムを支援します。それに対しロン・ノル将軍がクーデターを起こし親米のクメール共和国を作りましたが、反米反ロン・ノルの民族統一戦線(シハヌーク派共産党)が結成され内戦が激しくなります。
第二次インドシナ戦争終結(一九七五年)〜内戦〜パリ和平協定(一九九一年)
国内、国際世論に押されて一九七三年に米国が撤退を決め、ベトナムは統一されます。カンボジアではロン・ノル政権を倒した共産党内で実権を握ったポルポト派が、民主カンプチアを作り、党内部の粛清、国民に対して強制労働と知識人などの数百万人を大量虐殺しました。
ベトナムに逃れた、共産党幹部と難民が救国民族統一戦線を作り、ベトナム軍と協力してカンボジアへ攻め込みます。短期間でポルポト派を追い払いクメール人民共和国(ヘム・サムリン政権)を作りました。
しかしカンボジアを実効支配するヘム・サムリン政権を西側諸国は認めません。国民を大量虐殺したポルポト派を抱える反政府三派連合(ポルポト派、シハヌーク派ソン・サン派)を、米国や中国などが支援しました。三派連合が国連代表として居座り、戦火で疲弊したカンボジア国民への国際的な支援は、ほとんど届きませんでした。
政府側をベトナム旧ソ連が支援し、反政府側を米国、中国が支援する代理戦争のような内戦が続きます。それがベトナム軍の撤退と東西冷戦構造崩壊の変化の下に、一九九一年、政府と三派連合の和平協定が結ばれました。
カンボジア王国(一九九三年)以降〜現代
国連主導でカンボジアの再建が進められます。一九九三年に総選挙が実施されてカンボジア王国が設立されました。ポルポト派の軍事抵抗や政権抗争などもありましたが、平和への歩みを進めています。(Q)
参考資料:「カンボジア経済の基礎知識」道法清隆・林憲史/「カンボジア最前線」熊岡路矢/その他インターネット情報