『i-新聞記者ドキュメント-』感想

神戸映画サークル協議会の8月例会であった表記の映画の感想を書きました。ちょっと長いのですが、読んでみてください。

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ちょっと不満がありました

 繰り返し映画を見て、森達也監督が描き主張したかったのは何か、を考えました。この映画の一方の主役、菅義偉氏が首相になりましたから、ちょっと長い文章になってしまいました。

ラストシーンに望月衣塑子記者を大写しにして、そこに「i」という文字を重ねます。これが監督のテーマであることはわかります。もう一つはしつこいほど出す、フリーランスが記者会見に出ることの困難さです。ここに今日のジャーナリズムの危機の本質があるという、森監督の怒りを感じました。

一つ目の意味はなにかです。

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同調圧力の否定には賛成だが

 素直に受け取ると「i」は「いそこ」であり、独立した個であると思います。すなわち望月衣塑子自身の行動、思考が大事であり、新聞記者としても必要な資質だということです。ですからカメラは彼女とともに行動し、彼女の問題意識を共有するような撮り方になっています。

 私は共感します。しかし大手新聞記者としては特異な独自で率直な言動なのかもしれません。

 菅官房長官記者会見、籠池夫妻、伊藤詩織、沖縄基地問題宮古島自衛隊基地、前川喜平等、見事なくらいに現政権の批判となりました。後半のナレーションで、監督自身もそれらと同調する「リベラル」であるといいます。

そのうえで言いたいことは、リベラルの主張ではなく同調圧力の否定なのだと、パリ解放時の映像を流しました。

 これはちょっと難しい表現となっていると思います。

 それまでナチスの暴力に押さえつけられていた民衆が、反発が行き過ぎて裁判抜きの私刑(リンチ)で親ナチスの人間1万人を殺し、ナチスの愛人となった女性を丸坊主にする映像を出します。それはダメだろう、というものです。

 一人一人は善良な人間でも集団となると暴走が生じるという事例です。

 でも望月記者の取材対象とそのスタンスは少数派の側です。主要メディアの主要論調からは疎外されています。現政権の圧力は絶大で、街頭演説する安倍首相に罵声を浴びせれば逮捕されることも覚悟しないといけない現実があります。

この映画を見ている我々は、望月記者に同調しているし、この映画に同調しているのですが、現実は望月記者が批判している安倍政治に従う同調圧力が圧倒的に大きいのです。

ですからこの「同調圧力批判」に対し、見ていて混乱しました。

立場の違い、考え方の違いに拘り、所属するグループに従うのではなく、自分の頭で考えて行動することの大切さは理解しても、ここでパリ解放時での誤りを出すか、と思いました。

不器用だが率直

 望月衣塑子さんは、官邸記者会見で菅官房長官に重ねうちの質問をすることで有名になりました。映画でもそのシーンが出てきます。率直な感想は下手な質問だな、と思いました。

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 坪井兵輔さんの学習会で、普通の記者は自分でつかんできたネタを記者会見で出さず、個別取材でぶつける、と聞きました。公人はいつでもどこでも取材に応じる義務があり、答えなければ答えないことを報道する手法が取られるというものです。

 記者会見の活用は望月記者の手法です。記者内部でそれを批判するのは、答えが出ない質問を出すのは「時間を延ばすだけ」という気持ちがあるのかもしれません。

 しかし彼女は、官房長官が国民の疑問にまともに答えないことや、広報室長を使って質問妨害までする姿を引き出しました。

 この映画の上映時期に、「政権の守護神」に期待された黒川検事長産経新聞記者、朝日新聞記者が賭け麻雀をしていたと暴露され、批判されました。記者たちは懲戒処分されましたが、記者仲間では「よくそこまで食い込んだ」という評価もあります。取材の一つという見方です。

 肝心なのは、望月記者と違う取材方法で、彼らはどんな記事を書いたか、と問うことです。

癒着と排除

記者会見の主催者、記者クラブには実体がないのか、あるいは実体をさらすのはタブーなのか、疑問が残ります。

森監督自身が、記者会見の場に出たい、そのために多方面に働きかけるシーンが繰り返し出てきます。結局それは出来ないという結論でした。であるならば、官邸記者会見の主催者である官邸記者クラブとは何者だ「突撃インタビュー」と、マイケル・ムーアなら行くと思うのですが、この映画には「私が記者クラブの責任者です」という人は出てきません。加盟社が当番制で幹事社となって運営しているようですが、映画ではわかりません。

森監督が直接に記者クラブ幹事社に連絡するシーンは出てきません。これが疑問です。

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記者会見の主催者は記者クラブでありながら、司会進行も部外者の入室許可受付も官邸の国家公務員にいわば「委託」しているのだとわかってきます。官房長官も記者会見の運営に関する望月記者の質問に、記者クラブから「何も言ってこない」と反論しています。

望月記者は、質問妨害と嫌がらせに対して、東京新聞社として対応、抗議してほしいと上司に頼みます。あるいは記者クラブ担当者(電話の相手はそうではないかと推察)と激論をしています。

記者クラブを動かして記者会見を改善させることは、非常に難しい問題だと映画は言います。

森さんは、しつこいほど画策します。新聞労連委員長に何とかならないか、と問い詰めますが、なんともなりません。新聞労連記者クラブでの望月記者の質問に対する妨害、嫌がらせに対する抗議集会を開きます。

これは外形的には菅官房長官、官邸批判ですが、本質的には記者クラブ批判です。実行犯である広報室長は割としれっとしています。

最初は混乱しますが、映画を見ているとわかってきます。記者クラブは経営側の牙城です。彼らは運営や規約の変更には会員企業の「全会一致」が必要という縛りをかけて、既得権を守ります。部外者からの批判や介入を全く意に解しません

それは権力との癒着であり、権力を批判するものを排除する、国民の社会的権利である「報道の自由」を冒涜するものです。

実名、実例を挙げた批判

そう考えると、この映画に対する不満もはっきりしてきます。ドキュメントでありながら、記者クラブの中枢、正体、本質に迫っていないのです。

それは記者クラブを生み出し、組織を維持しているのは誰かということです。彼らは権力の監視どころか、癒着しているし、国民からその本質を隠蔽することに手を貸しているといっても言い過ぎではありません。

だとしたら、この映画の役割は記者クラブの本質、幹事社に日常的な役割をインタビューすることで、御用ジャーナリズムの本質に迫れたのではないかと思います。

この映画に前川喜平さんが登場します。彼が文科省事務次官をやめた経緯で、その時に官邸に呼ばれて出会い系バーに出入りしていることを注意されたといいます。そして辞職した後に読売新聞が、それを「スクープ」します。

それを追及しません。現職の事務次官が出会い系バーに出入りし、援助交際や売春を印象付ける記事を書きながら、その真偽はぼやかします。世論を批判を受けて、社会部長が必要な報道だとフォロー記事まで出しています。

官邸からのリークであり、取材に基づく事実も書かず、政権に逆らう高級官僚を貶める記事です。権力の監視の真逆です。

世界一の購読者を持つ大新聞の姿勢を追及しないのはなぜか、と思いました。

菅政権の下で

2020年9月安倍首相が持病の再発で辞任しました。その後を受けて、この映画のもう一人の主役である官房長官菅義偉氏が首相に就きました。

安倍前首相も息を吐くように嘘を言い、低劣なヤジや混ぜ返し、ご飯論法は得意でしたが、菅首相はそれに加えて脅迫的です。何度も基地建設反対の声を上げる沖縄に対して「粛々と進める」と露骨な切捨てを見せてきました。

彼は無派閥ですが二階幹事長と麻生副総理等の自民党内の大派閥に担がれ、政策はアベノミクスを引き継ぐと言っています。

秋田から出てきて、政治家秘書を経て横浜で政治家として成功しています。成り上がりの一面も持っていますが、イメージでは底辺の人たちを切捨ててきた人間です。

     意に沿わない公務員は排除すると明言し、さっそく共謀罪法などに反対した学者を学術会議委員から排除する暴挙に出ました。国内はもちろん海外からも学問研究に対する権力の介入の危険性を指摘する声が出ています。

私たちの生活や平和を守るために、今まで以上にジャーナリズムの「権力監視」の役割が大事です。