神戸港は軍港、軍需産業の拠点でした

11月1日~7日まで展示した「神戸空襲と神戸港の写真展」で掲示した文章です。

昨年、神戸港は開港150年でした。神戸市は港に関するパンフレットなどを出していましたが、神戸港が軍事的な重要な拠点であった歴史が抜けています。それで、私たちが色々調べて、その空白を埋めました。

今は平和な国際商業港ですが、戦前は軍需産業が集積する阪神工業地帯を抱え、戦後は米軍の基地となり、朝鮮戦争ベトナム戦争に使われています。また米兵の休養の港でもありました。

1975年「非核神戸方式」を実施してから、米軍の軍艦の寄港がなくなり、平和の港となりました。

以下に、その文章を載せておきます。

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市民に知らされていない神戸港の歴史1930(昭和5)年~1975(昭和50)

海外進出を支える軍需産業兵站神戸港

 1923(13)関東大震災で、横浜港の埠頭が大きなダメージをうけたのに伴って、船舶を中心とした物流の中心が神戸港に移ってきました。

 神戸港周辺には、造船を中心とした鉄鋼・化学産業などの重工業地帯が広がり、当時の神戸は人口約100万の人口密集地帯でした。また、鉄道も神戸臨港線(灘駅起点)、さらに兵庫臨港線・和田岬線(兵庫駅起点)も完成して、造船(川崎、三菱)を中心に、鉄鋼(神戸製鋼川崎製鉄)、航空機(川西航空機)、鉄道車輌(川崎重工)の工場には、引き込み線で連結されていました。川崎重工神戸造船所は日本海軍の大型艦船を建造できる4つの造船所()一つでした。 ()横須賀・呉海軍工廠三菱重工長崎造船所

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空母:飛鷹

 アジア・太平洋戦争時は、神戸港には、大日本帝国の海外進出を支える軍需産業と海運(兵站)という大きな役割がありました。

 神戸空襲は、120(神戸市史第3巻表)あり、そのうち米軍機が現れたのは84(文書館)となっています。B29による焼夷弾無差別爆撃により、市民に多数の被害をもたらしました。また、53日は神戸港沖への機雷投下があり、港湾としての機能が失われ、蝕雷により船舶も被害を受けました。

 

米軍(GHQ)に接収された神戸港

 1945年の敗戦後は、神戸港と神戸市内の多くの建物は、GHQ(米軍)に接収されました。接収は 1945 9 月末から始まり、新港第 1 突堤から第 6 突堤、中突堤、兵庫突堤等、その他川西、住友、三菱、三井の倉庫等 の主要施設が接収されました。神戸駅の西には黒人専用のWESTキャンプ、三宮そごう南東側一帯埠頭までは白人専用のEASTキャンプとして接収されました。接収された所は、神戸市内で50か所以上にのぼりました。接収解除は、1946 年から 1947 年にかけて兵庫突堤、中突堤が解除されましたが、1950 年の時点では、主要な港湾施設は未返還のままでした。神戸港沖の機雷やその周辺の沈没船は、1948年までにほぼ掃海され、港の機能が回復しました。

 

朝鮮戦争ベトナム戦争時の神戸港

19506月に開始された朝鮮戦争では神戸港は米軍の出撃・兵站基地となりました。米兵輸送は1950 7 月に2回、第 25 歩兵師団所属の第 27 歩兵連隊と第 35 歩兵連隊を送り出しました。1950 8 月、北朝鮮軍の攻勢が続き、国連軍は朝鮮半島南端の釜山付近まで追い詰められしました。仁川上陸作戦が計画され、神戸港は侵攻部隊(1 海兵隊)と軍事物資を輸送するための基地になりました。9月、神戸港から LST(戦車揚陸艦)47(うち 30 隻は日本人船員が乗り組む)、輸送船・貨物船66隻が出撃し仁川上陸作戦に参加しました。この上陸作戦攻撃部隊はトラクター部隊と呼ばれました。

ベトナム戦争(1961年から)は、神戸港の埠頭の一部は米軍の兵站基地として使われ、アメリの空母を含む多くの艦船が入港していました。核兵器を積載した米艦船も入港したといわれ、ベトナム戦争での米兵の休養地でもありました。ベトナムでの戦闘終了の後、1974年に神戸港は米軍基地から解放されて、最後の第6突堤が返還されました。

 1975(昭和50)318日には市議会で「核兵器積載艦艇の神戸港入港に関する決議」(非核神戸方式)が、全会一致で議決され、以後米艦船は神戸港に入港していません。