『ブンヤ!走れ』の感想

神戸演劇鑑賞会6月例会(関西芸術座公演、625日)

震災体験を語る

 これまでも阪神淡路大震災を描いた映画には厳しい批判をしてきましたが、この芝居にも「物足りない」「ポイントがずれている」という感想を持ちました。

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 トライアルウィークで神戸新聞社に来た中学生に、論説委員が震災の話をする設定で、大震災の直後と現在が交互に出てくる芝居です。その論説委員は、震災の時には新人の駆け出し記者、原智加でした。

 彼女が中学生たちに新聞、地方紙の役割を話すのですが、震災直後の経験を話す時に、過去に飛ぶという舞台構成です。

神戸新聞は大震災で三ノ宮駅前の本社ビルが倒壊します。それでも休刊することなく新聞を出し続けました。その状況の下で記者たちの奮闘の様子が描かれます。さらに東灘の新聞専売所が倒壊し、所長が犠牲になり、その家族の様子も挿入されました。

深みが足りない

 「関西には地震がないと思い込んでいた」というセリフがあります。新聞社として、なぜそう思い込んでいたか、その検証が必要です。ですが論説委員はそれには向き合って考えた様子は出てきません。

 さらに阪神淡路大震災を乗り越えたから神戸新聞には怖いものがない、そんな言い方も気になります。21世紀に入って、インターネットやSNS等の影響で、発行部数が減り広告収入も減って、新聞業界全体として経営的にも苦しくなっています。さらにジャーナリズムの本分である「権力の監視」という面でも弱体化しています。

 震災とは種類が違う大きな危機です。それが論説委員から全く伝わってきません。「原智加、震災後の混乱から今日まで君は何を学んできたのか」と問いたくなりました。

 震災直後は、困難な中でも新聞を発行し続けた心意気、被災した新聞社の使命を感じさせます。あるいは京都新聞との連携も機能的に働いたようです。

 あの恐ろしかった震災、死の恐怖、そして苦しかった生活再建、元の生活への復旧復興、まちづくり、いろいろなことがありました。それらを乗り越えた、そんなことを描くだけの芝居や映画はいらないと思っています。そこから普遍的な何かを感じ、現在の課題に通じるものを見せてほしいのです。

 論説委員というジャーナリストとして十分に経験を積んだ立場の人間は、今何を考えているのかという芝居を観たいと思いました。

 あの当時を振り返ると、ジャーナリズムの使命を再確認し、被災した新聞社の役割について考え、被災した人々、地域に寄り添った報道であったと思います。しかし、そうであっても、この間に何を考えてきたのか、やって来たことの反省はないのか、その深みが全くないのです。
「将来は新聞記者になりたい」という中学生に語る言葉は極めて能天気でした。

現代の危機

 昨年、映画サークルで東京新聞記者、望月依塑子を追う『i-新聞記者ドキュメント』を上映したときに、坪井兵輔(阪南大学教授)さんに来ていただき「伝統メディアの現状」という例会学習会を行いました。テレビや新聞などのマスメディアの経営もジャーナリズムでも危機的な状況を聞きました。

 そこで聞いた最も重要なことは、調査報道のために動ける記者を養成できるのは、新聞だけではないか、ということです。

 情報が氾濫する時代ですが、ほとんどが発表報道です。事実に対して、第3者の目で批判的に調査する、長期的歴史的視点に立った評価を考える記者の養成が大事だということです。

  そういう視点を持った芝居、映画がほしいと思いました。