『幸福なラザロ』の感想

市民映画劇場7月例会『幸福なラザロ』の感想を書きましたので、以下に載せます。映画サークル機関誌9月号に投稿しています。

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わからない映画はどのように楽しむか

 奇妙な映画でした。

 「ラザロ」という名前は新約聖書にある「蘇りの聖人」ですから、生き返るのは、いわばお約束です。でもラザロを復活させて監督は何を言おうとしたのか、明快にはわかりませんでした。

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 一度目の世界で、ラザロは風邪をひいたのか熱を出し、意識不明のままフラフラと歩いて崖から落ちて死にます。そして狼に命を吹き込まれたように蘇りますが、それは十数年をへた二度目の世界(現代)でした。ラザロは時を隔てて、二つの世界を生きます。

支配された共同体

 一度目は時間が止まったような閉鎖された空間の農園です。ここの農民たちは、侯爵の農園で働き、生活のすべてを支配された封建社会的な生き方です。村は共同体で、みんなで働き、みんなでたばこ生産の報酬を受けます。生活に必要なものは侯爵の管理人が支給し、差し引き計算で負債がどんどん膨らんでいく仕組みです。そのため農民たちは農園を離れることができません。

 侯爵夫人は、彼らを騙し搾取していると自覚しています。

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 ラザロは自分の出自もよくわからないまま、村人たちと一緒に働き、食べて寝ています。ほとんど自己主張がなく、誰彼となく言われるままに用事をこなす様子が映画で描かれました。村の子どもです。

 でも彼は自分の隠れ家を持ち、そこで体を休め、心静かな時間を過ごしていました。

侯爵の息子タンクレディと出会って、何に惹かれたのか、彼を隠れ家に連れてきて、さらに、彼の言うまま狂言誘拐の片棒も担ぎました。

 ラザロにとっては、なに思い煩うこともない日常からのわずかな変化です。それが村に大きな変化をもたらしました。

自由な貧困

 蘇ったラザロは村に帰りますが、だれもいないことに驚きます。村人たちは、ラザロが死んでいる間に、農園から救い出されて、自由な農民となって、都会に出ていました。

 ラザロも村人たちを探し求めて、二度目の世界、都会に出ます。そして青年になった村の子どもピッポとその母アントニアに再会します。行く当てのないラザロはアントニアの居候になりました。さらに中年太りしたタンクレディと再会します。

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 アントニアの家族は、捨てられた巨大なタンクに住み、間抜けな泥棒とささやかな詐欺を生業としていました。タンクレディも財産のすべてを銀行に取られていました。

 彼らは、自由ですが日々の生活に不自由しています。

 そしてラザロは、唐突に銀行に出向いて「タンクレディの財産を返してやれ」と言い、その場に居合わせた庶民に殴り殺されます。

 映画はそれで終わりました。ラザロに命を吹き込んだ狼は、再び山に帰ります。

解けない寓意

 何人かに「この映画は何を言わんとしているのか」と聞かれました。答えはないので「わからない」ですが、わからない映画はいろいろな人の感想、意見を聞くのが楽しみです。どんな解釈が出来るのか、映像の可能性の広がりを味わう映画です。

 私の感じたことを書いておきます。

 神の意志は「日々の暮らしに困っている村人たちを救えないか」とラザロを復活させます。けれども、現代では彼の「素朴さ」は役にたたないということです。

 資本主義の発展は、生産力を大きく向上させて、しかも人間の「自由」を広げたけれども、生活の術を奪われた人々は貧困に陥り、分断されています。

 むしろラザロの「素朴さ」が秩序を乱すことに人々は怒り、彼を排除します。神はあきれ顔で山に帰りましたとさ。