『生物はなぜ誕生したのか―生命の起源と進化の最新科学/ピ-タ-・ウォ-ド、ジョゼフ・カ―シュヴィンク』『桂枝雀 おもしろ対談Ⅱ/桂枝雀』『世界を知る101冊/海部宣男』『戦時下の日本映画 人々は国策映画を観たか/古川隆久』そしてフジコ・ヘミングの『たどりつく力』『やがて鐘は鳴る』『私が歩んだ道、パリ』の7冊です。そして『世界10月号』『前衛10月号』です
今月は冊数は増えましたが、実質はあまり読めません。やはり『戦時下の日本映画』で原稿を書くために、何度も読み返しているためです。これは12月の「兵庫の『語り継ごう戦争』展」に「戦時下の映画」を書くためです。
分量が多いので2回に分けます。
『生物はなぜ誕生したのか―生命の起源と進化の最新科学/ピ-タ-・ウォ-ド、ジョゼフ・カ―シュヴィンク』
文末の原注を除いて400頁という大部です。一般向けの科学書なのですが、地球の歴史が書かれていますから、すいすい読むというわけにはいきません。
地球の誕生の46億年前から、地球環境(岩石の誕生、酸素、海と大気)をさぐり、生命の定義(代射、複製、複雑さと組織、発達、進化、自立性)をしながら、いつ頃どのようにしてどのような生命が生まれたかを書いていきます。34億年前に最古の生物がいたようです。そして10億年単位で単細胞、多細胞、原核細胞などの進化があったようです。
オーストラリアで見つかった5億6千~4千年前の化石が最古の動物です。カンブリア爆発です。そこから生命の誕生と死滅、地球の気候の激変などが、書かれます。
恐竜から哺乳類なども含め、酸素濃度の変化で体の大きさが決まるし、種の繫栄、死滅も様々に繰り返されました。恐竜の子孫と言われる鳥類が面白い存在です。
生物の大絶滅の時期とその原因の解明などがもっと進めば、人類の来し方行く末も分かるのかなと思いました。
昭和54年から「枝雀と枝雀一門の落語とゲストとの対談」の枝雀寄席というテレビ番組がありました。1979年9月から1999年4月まで246回放送されました。もしかしたら見たかも、記憶がうっすらとあります。これはそのゲストとの対談をまとめたものです。
54年から5年分が「対談Ⅰ」でその後の5年分から24人を選んで載せてありました。
米朝師匠があり、三林京子、坂田利夫、芦屋小雁、難波利三、加藤武、ピ-タ-、三橋美智也、織田正吉等です。
あまり面白くありません。枝雀自身が人見知りで、初対面の人との話は大の苦手、と書いています。
それもあるからでしょうが、丁々発止のやり取りがなく、それぞれの分野の突っ込んだ話もないのです。前に読んだ古今亭志ん朝の対談集は志ん朝の人なり落語なりの魅力に迫る話でしたが、これは漠然とした話でした。
その中で面白かったものを書いておきます。
米朝師匠との話。落語の大事のことの一つ「その日のお客さんの雰囲気というものと、なんとなく最大公約数みたいなものを量る」
坂田利夫との話。仕事中に「あ、恥ずかしいな、と思うようになったら僕はもうやめよう」と坂田は言う。しかし枝雀は楽屋でも普通ではないと突っ込んだ。
『世界を知る101冊/海部宣男』
毎日新聞に書かれた海部さんの書評集です。前に読んだ『77冊から読む科学と不確実な社会』前編です。 主には自然科学系の教養書ですが、とても読みやすいし、紹介する本がみんな魅力的で、いつか読もうと思うものばかりです。その中でも、これはと思うもの列挙しておきます。
『ファーブル植物記』(ファーブルは強力な反進化論者)『いじわるな遺伝子』『生命40億年全史』(『生物はなぜ誕生したか』にも大きな影響を与えた名著ですが、生物学 は日進月歩だそうです)『原子論の歴史』『はじめての〈超ひも理論〉宇宙・力・時間の謎を解く』『縄文論争』『もう一つの視覚』『脳は空より広いか』『現代ホモ・サピエンスの変貌』『地中生命の驚異』『寿命論』『星界の報告』(ガリレオの著書です)『「坊ちゃん」の時代』『ヒンドゥー教』『カ-ル・セ-ガン科学と悪霊を語る』『人はなぜ騙されるのか』『見えない巨大水脈 地下水の科学』『世界の終焉へのいくつものシナリオ』
『戦時下の日本映画 人々は国策映画を観たか/古川隆久』
これをネタ本に『戦時下の映画』を書きました。2023年12月の『兵庫の「語りつごう戦争」展』に掲示しましたが、それを掲載します。長いですが読んでみてください。
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戦時下の映画状況
はじめに
アジア太平洋戦争(満州事変1931(S6)年~日本の敗戦1945(S20)年)の下で、映画界の状況、人々はどのように映画を見ていたのか、を調べてみました。主には日中戦争前後からの記述となりました。
1895(M28)年フランスのリュミエール兄弟の「シネマトグラフ」が公開されたのが映画の誕生と言われています。日本では1897(M30)年に輸入され大阪で上映されました。同時期に発明された覗き穴から見るエジソンの「キネトスコープ」は、その前年1896(M29)年に神戸で上映されています。
ここから日本映画は始まります。1899(M32)年には国産映画がつくられました。
日中戦争の前夜
日中戦争の前年1936(S11)年頃の映画状況を国際比較すると、映画館数は米国17000館、ドイツ、イギリス、イタリアで約5000館、日本1627館と第8位でした。映画製作本数は39(S14)年には長編582本と米国を上回り世界1位となっています。イギリス、ドイツ、フランスは200本以下でした。
このように欧米を含めても世界有数の映画大国です。邦画が中心ですが映画は娯楽の王様と見られていました。映画人口は2億人を超えています。当時の日本本土の人口が約7千万人ですから、年に3回近く(現在は1回強)見ています。しかし観客の大多数は20歳代以下で、4人に1人が小人(14歳未満)でした。
また映画館の立地も鉱工業地帯の大都市(東京、大阪、福岡、神奈川、京都、兵庫、愛知の順)に集中しています。
映画料金は20銭が多く、末端では10銭もある一方で、大都市の一流の映画館では50銭、1円、1円50銭もありました。比較すると当時のかけそばは10銭でした。
検閲と統制
映画の検閲は、各道府県の警察が早くから始めていましたが、内務省警保局(全国の警察を統括した)が1925(T14)年から国内で上映するすべての映画の検閲を開始します。
皇族批判や残虐場面、性交場面はもちろん駄目ですが、接吻をしても削除されました。
検閲から、さらに政府の統制を強める「映画国策建議案」が33(S8)年衆議院で可決されます。内務省は37(S12)年、検閲手数料免除措置を邦画全体に拡大し、国策に沿った映画の製作を奨励し始めました。
38(S13)年、国民を戦争へと糾合させるの国家総動員法に続き、映画の統制をいっそう強める映画法が39(S14)年に公布、同年施行されます。その内容は「国民文化の進展のために映画の質的向上図ることを目的」として、映画事業(製作・配給・興行)の政府による許可制(企業の統廃合、製作の割り当て)と従業員の登録制(監督やキャメラマン等の映画人の審査)、外国映画の輸入制限(洋画の排除)、優秀映画の報奨、文部省認定の文化映画の映画館における強制上映、内務省による従来の完成後検閲に加えて撮影開始前の台本の事前検閲、文部省による認定映画上映時以外の6歳以上14歳以下の入場禁止等が定められました。
映画産業の経営者は、国の支援が受けられると思い、反対の根回しをしませんでした。映画評論家たちの多くは、日本映画の質的向上に資すると考えていました。評論家の岩崎昶が一人反対の論陣を張りました。彼は後に治安維持法で逮捕されています。
映画法を受けて、大日本映画協会(国の外郭団体)は映画技術者を養成する日本映画学校(43~45年)を設立しました。
映画産業
1937(S12)年の映画界は老舗の日活、演劇から始まった松竹、この年に発足した東宝の3社が大手で、製作、配給、興行を持っていました。その他に新興キネマ、大都等の2番手の企業があり、ニュース映画、教育映画などを製作する小規模会社がありました。
日米開戦となった直後42(S17)年には、映画臨戦体制として東宝、松竹、大映(日活、大都映画、新興キネマ)の三社体制に再編されました。
戦時中の標語「ぜいたくは敵だ」「欲しがりません勝つまでは」を生んだ7.7禁令(40(S15)年、奢侈品等製造販売制限規則)により、娯楽映画を否定する検閲の強化や上映時間の制限、学生・児童の入場制限を行いました。
フィルムが制限されて41(S16)年から1社につき毎月2本ずつの製作、1本につき50本のプリントとなりました。製作本数は前年の半分250本になりました。
日米開戦以降の製作本数は激減しています。
映画人口は、満州事変31(S6)年1億6千人であったものが、戦争体制が強化される下で増え続け、日中戦争が勃発した38(S13)年に3億人を超えます。42(S17)年5億1千人がピークですが、翌年以降も3億人以上を維持します。
軍需景気の影響や、人々が娯楽を求めたこともありますが、開戦直後の中国での戦争を伝えるニュース映画が受けて、大人の観客を大きく増やしました。
45年は大都市への空襲が激しくなり、そして敗戦となり統計はありません。
映画ジャーナリズム
1937(S12)年には映画雑誌47種、映画新聞37種ありました。ファン向けの映画スターのグラビア写真中心のものから専門家向けまで多彩です。しかし映画法により映画ジャーナリズムも統制されて40(S15)年末に映画雑誌11誌になっています。さらに44(S19)年には映画業界向け「日本映画」評論家向け「映画評論」一般向け「新映画」の3誌に統合されました。
「語り継ごう戦争」展に資料としてある雑誌「映画評論」は25(T14)年~75(S50)年まで発行され、43(S18)年から清水晶が編集長を務めました。
現在ある「キネマ旬報」は19(T8)年に創刊されて、41~45(S16~20)年まで戦時統制により休刊していました。
国策映画より娯楽映画
1931(S6)年、満州事変の時期は、邦画525本、洋画258本が封切られています。37(S12)年、日中戦争でも邦画534本、洋画286本です。映画法の翌年40(S15)年には邦画500本、洋画52本となっています。
洋画はインテリが見るものであり、一般的な映画ファンは邦画を好みました。そして戦時色が強くなるにつれ、政府は映画に国民の戦意高揚を担わせようとしました。
国策に沿った映画も多く作られますが、しかしそれらの多くはあまりヒットしませんでした。例外的に、初期の戦勝を撮った『ハワイ・マレー沖海戦』『マレー戦記』が、特撮効果や宣伝によって観客を動員しました。『燃ゆる大空』『決戦の大空へ』なども、少年たちを予科練に誘いました。
社会的現象となった『愛染かつら』など単純な恋愛映画がヒットします。同様にヒットした『支那の夜』は日本人男性と中国人女性の恋愛映画で「日支親善」と見られますが「神聖な戦場で低俗な恋愛映画」と批判されました。「この映画をきっかけに検閲が強化された」と言われます。
文部大臣賞を受けた『土と兵隊』は大規模な広告宣伝や学校の団体鑑賞などによって動員が企てられました。しかし国民は喜劇や恋愛などの娯楽映画を好みました。
その一方で中国戦線に従軍して撮った『戦う兵隊』は「疲れた兵隊だ」と罵倒され上映禁止、監督の亀井文雄は後に特高警察に逮捕されました。陸軍省の依頼によりつくられた国策映画『陸軍』は、出征を見送る母の心情を正直に描いて、監督の木下恵介は敗戦まで干されました。