8月例会学習会「私たちのNO−今、戦争立法を考える」

8月例会はチリの映画『NO』です。
1973年軍事クーデターによって選挙で選出されたアジェンデ政権を倒したピノチェトは、反対派を徹底的に弾圧し、チリの人々の自由と基本的人権を奪いました。
粘り強い反対運動と国際世論によって、1988年ピノチェト政権の信任投票が行われました。
『NO』はそれを描きました。詳細は神戸映画サークル協議会のHPを見てください。
http://kobe-eisa.com/?page_id=663
映画に関わる学習会として、7月31日、標記の学習会を持ちました。
坂本知可弁護士に来ていただいて、戦争立法の話をしていただきました。

今現在の憲法が蹂躙されようとしている日本の状況は、立憲主義をないがしろにする、武力を使わないクーデタです。全国、全国民の反対運動によって安倍政権を退陣に追い込まないといけないと思っています。
私は『NO』の担当で、映画の背景を機関誌に書いています。ちょっと長いですが、ここに載せておきます。

アジェンデとピノチェトの時代
はじめに
 チリワインが安くておいしいのを最近知りました。気候的にいい葡萄ができて、欧州に負けない上等のワインが造られています。その上、日本とチリは二〇〇七年に自由貿易協定、経済連携協定を結んでいて、関税が低くなっています。
 地理的には太平洋をはさんだはるか遠い隣国ですが、一九六〇年のチリ大地震による津波で日本にも大きな被害がありました。
 そしてこの映画に関わる、ピノチェト軍事独裁政権を批判し、チリの民主主義を支援する「チリ人民連帯日本委員会」が作られています。映画サークルでも、諸団体と協力して一九八七年にドキュメンタリー『戒厳令下チリ潜入記』(監督ミゲル・リティン)を上映しました。
 チリ共和国の基礎的なデータを紹介すると、人口は約17百万人、面積は76万平方km(日本の約2倍)。南米大陸の背骨、アンデス山脈の西側、南北42百km、東西平均180kmの細長い国です。気候も北から亜熱帯、砂漠、ステップ、地中海、ツンドラと多彩です。人種的には混血も含め白人系が多数を占め、カトリックが7割となっています。
 チリは、この映画が描いたピノチェト打倒の後、民主主義を復活させて、紆余曲折はあっても、現在ではラテンアメリカで最も経済的に安定していて、教育水準も高く治安も保たれています。社会保障も充実させて、貧困率(中位の所得の半分以下の割合)がピノチェト時代の40%台から18%へと改善させてきました。
アジェンデ政権の誕生
ラテンアメリカ全体がスペインからの独立戦争を戦っている時期に、チリも一八一八年に独立し、欧州型の立憲政治を確立しました。第2次世界大戦前には、資本家や中小地主の支持を得た急進党が主導して社会党共産党も参加した人民戦線政権を作っています。
大戦後の東西冷戦構造の中で、米国の「裏庭」として国家経済の根幹である銅鉱山等を米国や外国資本に支配され、慢性的インフレと国際収支の赤字が深刻化しました。
そんな政治経済情勢の中で、一九七〇年共産党社会党急進党を中心に「人民連合」が結成されサルバドール・アジェンデ第29代大統領が誕生します。これは世界で初めて、民主的な選挙によって作られた社会主義政権といわれ、資本主義国で活動する左翼政党を励ましました。
キューバを除くラテンアメリカ全体の政治経済を支配してきた米国は、社会主義政権を嫌い、これを阻止するために、また樹立後も、反アジェンデ勢力に資金提供し、軍部にクーデターを働きかけるなど、露骨な介入を続けました。
アジェンデ大統領は、議会では少数与党でしたが、銅鉱山等主要産業から外国資本を追い出して国有化を進めました。農地改革では大土地所有者から収用した土地を、農民に分配していきました。そして社会保障を改善し、価格統制でインフレを抑えて賃金をあげる政策を展開しました。
そういう政策を進める国家財政の原資は、世界の3割を占める銅の輸出に求めました。
これに対して、米国ニクソン政権はチリ経済を混乱させるために、手持ちの銅を放出して銅の国際相場を低下させました。キッシンジャー国務長官は、CIAを通じて右翼政党や労働組合に資金を流し、トラック業者の全国的なストライキ、経営者のサボタージュ等、反政府運動を仕掛けていきました。
チリの9.11
 米国だけではなく西側諸国からの経済封鎖を受け、チリ経済は激しいインフレ、物資不足、国際収支の悪化等、混乱に陥れられます。73年2月には食料品が配給制になるところまで追い込まれます。
 しかしその年の3月に実施された国政選挙では43%もの支持を得ます。これは71年4月の地方選挙の50%よりも後退しましたが、政権獲得した選挙の36%よりも高いものでした。
 選挙ではアジェンデ政権を倒せないと思った米国と反アジェンデ勢力は軍事クーデターを企てていきます。
 73年6月に陸軍の一部が反乱を起こしますが、「軍は中立を保つ」という陸軍総司令官プラッツ将軍に阻まれます。しかし、そのプラッツ将軍も陸軍内部からの突き上げによって8月に辞職します。
 そして後任に就いたのはアウグスト・ピノチェト将軍でした。
 米国の意を受けたピノチェトは、保守派や財界の支持を取り付けて、9月11日クーデターを勃発させます。朝6時、海軍が反乱を起こしました。陸軍の戦車が大統領府であるモネダ宮を取り囲んで砲撃し、空軍の戦闘機がミサイルを撃ち込みました。
 大統領を守るべき治安警察も銃口の向きを変えました。
 絶望的な状況で、アジェンデ大統領は、決然とラジオを通じて「私は辞任しない。チリ万歳、人民万歳、労働者万歳」というメッセージを送りました。そして自ら銃を取って自殺します。
ピノチェト軍事独裁、人民弾圧
アジェンデの死は悲劇の幕開けとなりました。ピノチェトは「政治に介入してはならない」と言う軍人を粛清し、労働組合幹部や政治家、活動家だけではなくアジェンデ(人民連合)派の市民を次々と逮捕しました。
首都サンチャゴの国際競技場が収容所にされます。その中で、国民的なフォーク歌手であったビクトル・ハラは、ギターを弾けないように両手の指を砕かれたあと、人々の中で「ベンセレーモス(我らは勝利する)」を歌い、そして銃殺されます。
ノーベル文学賞パブロ・ネルーダは癌で臥せっているところを引きずり出されて、死亡しました。
この時の犠牲者は、政府の発表で約3千人ですが、10万人を越えるといわれます。彼らは投獄され、拷問され、虐殺されました。
ピノチェトは第30代大統領に就任し、チリ全土に戒厳令を敷いて「マルクス主義か民主主義か」「人権を口にするものは投獄か海外追放」と恐怖政治を敷きます。
政党は禁止され、マスメディアは検閲、発禁処分を受けました。政府を批判するものは秘密警察に拉致、虐殺されました。
弾圧を恐れて人口の約1割百万の人々が海外へ逃れたと言われます。
これに対して国際連合は一九七四年から毎年、人権侵害の非難決議を採択し続けました。
貧困から民主化
ピノチェトはアジェンデ時代の社会主義的な経済政策を180度転換する新自由主義経済を導入します。公営企業を外資に売渡し、公共サービスの民営化、規制緩和による過度な市場主義、そして米国の支援などによって一時的に「チリの奇跡」と呼ばれるバブルを作り出しました。
しかし、それはすぐに破綻します。海外債務が膨れ上がり、82年チリは深刻な不況に突入します。二桁のマイナス成長と20%を越える失業率、大幅な実質賃金の切り下げによって国民生活は非常に苦しくなりました。
多国籍企業を優遇する経済政策によって、一部の富裕層と大多数の貧困層を作り出します。「アジェンデの時代、物はなかったがお金はあった。ピノチェト時代は、物はあるがお金がない」といわれました。
 戒厳令が緩和されると、国民の怒りが民主化を要求する反政府活動を大きくしていきました。
弾圧によって政治勢力は穏健派と急進派に分断され弱体化しましたが、87年、ローマ法王の訪問等によって、キリスト教会が政府の暴力を批判し「社会正義」を求めて、ピノチェト批判の急先鋒に立ちます。米国議会も軍政の行き過ぎを批判し、軍内部でも反ピノチェトの動きが出てきます。
そういう国民各層の変化と大きなうねりの中で、一九八八年のピノチェト信任投票を迎えました。(Q)
参考資料:「燃える中南米伊藤千尋岩波新書)/ラテンアメリカ辞典/パンフレット