終戦記念日を前にした社説を読んだ。全国紙5紙と[神戸]だ。当然だが東日本大震災を踏まえた、今後の日本について書いている。そして、多くがその起点を戦争と戦後の見方においている。
[神戸]に拍手
短いが[神戸]が一番わかりやすくよかった。それも含めて彼ら自身ジャーナリズムの責任に触れたものがない。わずかに[朝日]が「健全で利害から独立したジャーナリズムが果たすべき責任と役割は重い」と誰に向かって言った言葉が明確にはわからないが、ジャーナリズムの責任を明らかにしている。
しかし[朝日]は政府や電力会社は「嘘を重ねた軍部の『大本営発表』顔負けだ」と書いている。朝日新聞社は戦後、自ら反省した新聞社の戦争責任を忘れたのだろうか。あるいは3.11前の原発報道には、反省するところはないのだろうが。
それはひとまず置くとしても、[神戸]と[朝日]だけが「戦後日本が歩んできた道はこれでよかったのだろうか」という問いかけから始まっている。[神戸]は戦争前後の論評はなく、戦後の日本は「大都市が地方から人やモノを吸い上げる一方通行の国づくりではなかったか。その「ゆがみ」をさらけ出したのが大震災である」と指摘し、「66年の歩みは、どうだったか。その問いを書いては新しい地域の未来図は描けない」と結んでいる。
[朝日]の欺瞞
[朝日]は、3.11以前を戦前の日本になぞらえる。戦前は軍部と国民の愚かさに、責任を押し付ける。戦後は官僚と国民だ。原発事故を「『閉鎖的な専門家システム』と『大半の国民の無関心』という共犯関係によって生じた」という。あるいは映画『山本五十六』で五十六を演じた役所広司の言葉「この国にはエリートが自分たちに都合よくまわしておけばいい、という歴史があり、今も続いている。一方で国民はビジネスや金儲けは真剣だが大事なことを忘れている」を援用している。恐ろしいことだが、この国に厳然としている財界の責任にはまったく触れない。
[朝日]原発廃止の論陣を張っているが、この社説を読むとそれも眉に唾して見ておかないと、と思う。
社説は社説
[毎日]は当たり障りなくまとめている。[読売]は脱原発の流れはなんとしても止めようという意図はよくわかる。[日経]はいまだに天皇の「ご聖断」によって戦争は終わったという。「今となってみれば、よくあんな無謀で、理不尽な戦争をしたものだ」というなら、開戦の「ご聖断」を下した天皇にはなんと言うのか。[産経]はこれも「世界一安全な原発」をめざそうという。
私は古い人間だから、やはり信頼にたる新聞報道がほしい。それは非常に厳しいことだが新聞社、新聞記者(新聞社員ではない)の奮闘が必要だ。一人ひとりの記者は社説に縛られて仕事をしていると思わない。それは私たちの仕事もそうだが、個人で創意工夫もがんばりどころもある。そんな記事を応援していきたい。