『オペラ イヌの仇討あるいは吉良の決断』の感想

演劇鑑賞会10月例会オペラシアターこんにゃく座公演20211022

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 ちょっと長い感想になってしまいました。でも面白い芝居でしたから、あれこれと書いてしまいました。辛抱して読んでください。

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 我々の若い頃(450年頃前)までは、赤穂浪士の討ち入りは「忠臣蔵」と言い「義挙」のような描き方で、毎年のように映画やテレビドラマで取り上げられました。四七士は個性的なエピソードで彩られ、その配役は多数のスター俳優に割り当てられていました。

 そして吉良上野介の側は憎々し気な敵役俳優が演じています。

 しばらくすると赤穂=正義、吉良=悪という単純な構図を破って、史実に基づく元禄時代を踏まえた、映画やテレビドラマがつくられようになりました。両者を対立的にとらえるのではなく、幕府や江戸庶民を含めて、それぞれの思惑が描かれるようになっていきます。封建社会の矛盾も描かれます。

 そういう構図全体の変化はあっても、赤穂浪士の討ち入りが山場になるために、そこは華やかなアクションシーンとなっています。堀部安兵衛不破数右衛門、清水一学等の赤穂、吉良のスター配役で、殺陣が楽しめました。

 この芝居は、その構図を大きく変えるものです。しかもチャンバラもなく吉良上野介の葛藤を中心に持ってくるという、これまでの忠臣蔵の魅力を大きく変えるものです。

 井上ひさしの戯曲とはいえ、オペラで台詞が簡略化されていて、しかも今回は、声が少し通りにくい状況もあり、見ているほうにはストレスがありました。

 でも作品の視点がいいから、私は楽しい芝居でした。それが時間がたって振り返って考えてみると、なんともやるせなくなりました。

上野介の言い分

 芝居は、赤穂浪士たちが吉良邸に討ち入った夜、吉良邸の隠し部屋です。

 赤穂浪士が「仇討ち」に来るという噂があり、吉良側も多くの家来を屋敷内に住まわせていました。そして実際に1215日未明、大石内蔵助の指揮のもと襲撃されました。

 吉良上野介は襲撃を知るや、準備していた味噌蔵に避難します。傍につくのは、彼の近習侍と女中たち、行火(あんか、側室ではない、愛人だろうか)です。そして屋敷に忍んでいた盗人が現れ、赤穂浪士たちが走り回る屋敷内を自由に動ける茶坊主が時折やってきます。

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 上野介は「なぜ仇呼ばわりされるのか」「大石の真意がわからぬ」と盛んに言います。

 江戸城、松の廊下で「国を捨て、家来も捨てて」と錯乱した内匠頭に一方的切り付けられ、そして役職を離れ隠居し、屋敷も田舎に移された。なおかつ仇呼ばわりとはなんだ。内匠頭は切腹させられたが、それを命じたのは幕府ではないか。

 大石も主君の性格を知っていて放っておいたではないか。

なぜわしに恨みを抱く「わからぬ」となります。

忠臣蔵」の大筋

 昔の「忠臣蔵」の筋書きは概ね次のようです。

 浅野内匠頭は、天皇の勅使を供応する役割を幕府に仰せつかるが、その時、役職をかさに着た上野介に意地悪された「積年の恨み」を持っていました。それで松の廊下において脇差でもって切り付けます。上野介は手傷を負っただけで助かりました。

 城中で刃傷沙汰はご法度で、内匠頭は即日に切腹赤穂藩はお取り潰しとなりました。

 赤穂藩の最高責任者、国家老大石内蔵助は、素直に城を明け渡し、内匠頭の弟、浅野大学による御家再興を願い出ます。

 一方では「喧嘩両成敗」でないこと、上野介が生き残ったこと、「殿の無念をはらす」ために、上野介を「仇」として、討つことを主張する家来たちもいました。

 そして御家再興が拒否されたことで、急速に「仇討ち」へ向かいました。

江戸の庶民たちも吉良を悪役に、赤穂浪士の討ち入りを期待します。討ち入り後は喝采を叫びました。

 巷間では「武士の本懐」と英雄でしたが、幕府の命により討ち入りをした赤穂の浪士たちは切腹させられました。

 そしてこの顛末は、『仮名手本忠臣蔵』など人形浄瑠璃や歌舞伎の演目になりました。日本人の心に美談、英雄的行為として讃えられて、さまざまな物語に発展しています。

なぜ「イヌの仇討」か

 芝居を観ているときは、上野介の変化に納得していました。

 茶坊主や盗人の証言から幕府の狙いが明らかにされていきます。それまで幕府を頼りにしていた上野介は、幕府によって悪役に仕立てられ、見捨てられていることに気づきます。

 幕府高家として誇りを持ち、献身的な奉公を尽くしたと思っていました。それが綱吉から下された「お犬様」よりも軽い扱い、と感じたのでしょう。しかも息子が養子に行った上杉家も巻き込み「お取り潰し」という危険性もあります。

 上野介は大仰な仇討の意図を見抜きました。大石内蔵助は吉良を「幕府のイヌ」と見立て、しかも事を大きくしようとしています。それは幕府への異議申し立てです。武士社会だけではなく、庶民にも幕府の不公平さ、片手落ちを明らかにしようという企てです。

 「天下のご政道」を問うことに命を懸けている「死に武者」です。

 それに気づいた上野介も、幕府に物を言いたくなったでしょう。

 しかし、事ここに至ってはできることは限られています。彼は自らを悪役=幕府のイヌに貶めてでも、赤穂浪士らを英雄にして、幕府の非を巷間に広める、この顛末を末代までも語らせることを目的として、潔く討たれる道をとりました。

 覚悟を決めて「生きに行く」という言い方に「そうだ」と思いました。しかし、この原稿を書きながら思ったのは「果たしてそうか」です。

死ぬことが生きることの矛盾

 封建社会の制約の中で「親子は一世、夫婦は二世、主従は三世(不倫は四世(よせ))」のように、儒教の主従関係に縛られた生き方が正しいと思われています。しかし主従関係などあやふやなものです。

 上野介にとって主君は綱吉であると思い込んでいます。主君が家来を見捨てても「君、君たらずとも、臣、臣たらざるべからず」が儒教です。

 しかし、そうもいかないのが人情です。幕藩体制が作られて、それを管理運営する徳川幕府や各藩の幹部、重臣たちや中堅の官僚たちに、家臣は忠誠を尽くせるのか、それは無理というものです。抽象的な「お家のため」は矛盾に満ちています。

だから上野介は「幕府のイヌ」と見られたまま、イヌとして死ぬことを覚悟します。主君の過ちを庇う「臣たらん」ことを否定し、イヌと見られながらイヌではない、この矛盾を胸に、人として生きる道へと踏み出しました。

 この「上野介の決断」に気づいたのは井上ひさしだからだろうと思いました。やるせない。この時代でも人間の命は大切で、だから命を賭す行為は貴重で、その葛藤は感動的です。

 このような矛盾と葛藤を踏まえた時代劇ドラマは面白くなります。お上の英断に頼る勧善懲悪のパターンはある層には受けますが、私は面白くない、と思いました。