2024年3月に見た映画

『荒野に希望の灯をともす』『永遠の門―ゴッホが見た未来』『戦雲』『私がやりました』『ジャンプダーリン』『ピアノレッスン』

 今月も6本です。いろいろと忙しくしていたので、なかなか映画を見に行けませんでした。2本立て(パルシネマとシネマ神戸1)を見れたら本数を稼げるのですが、面白いのをしていないので、最近は見送っています。月に78本、年間80本以上が目標です。

 なるべく短くと思いましたが、無理なので2回に分けます。

『荒野に希望の灯をともす』

 アフガニスタンで難民救済活動をされていた中村哲さんを追ったドキュメンタリーです。中心的には、彼が医療よりも荒野に用水路をひく活動されたことを撮っています。


 その結果、荒れ野が緑地、耕地に変わって多くの人を助けました。全くすごい、偉業としか言いようがありません

 しかし映画が描いたことよりも、描かなかったこと、彼が医療よりも土木工事に精力を傾けたのはなぜだろうという思いが抜けません。

 中村哲さんの献身的な活動、困難な課題を解決する努力等否定するものではありませんが、彼の活動に協力する土木屋がいなかったのか、ペシャワール会にその関係者はいなかったのか、日本の土建業は何をしていたのか、儲からないと動かないのか、政府は助成しなかったのか、思ってしまいます。

 恐らく彼は、日本では孤立無援だったのでしょう。 

『永遠の門―ゴッホが見た未来』

 ゴッホが画家となって生きた後半生、フランス時代の約5年を描きました。タイトルの「ゴッホが見た未来」は配給会社がつけた邦題です。ゴッホは未来など見ていません。目の前にあるフランス、アルルの風景、自画像を含めた人物像をひたすら見ていました。

 それは彼が最初にめざした職業、父と同じ聖職者になりたかったことと関係があるように思います。

 ゴッホの生き方は良く描いていましたが、それが現在とどうつながってくるのか、私にはわかりませんでした。

 機関誌にゴッホの人生を紹介しましたので、それを載せることにします。

 彼は女性に惚れっぽいようです。失恋を繰り返しています。そして彼を評価してくれたゴーギャンが彼のもとを出ていった時に、有名な「耳切事件」を起こしました。一途な思い込みの人生かなと思いました。

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フィンセント・ファン・ゴッホの生涯

挫折から

 映画『永遠の門』はゴッホの画家時代一〇年のうちのフランスで暮らした後半の五年ほどを描いています。

 一八五三年三月三〇日に生まれ一八九〇年七月二九日に没するという短い人生ですが、画家として生きようとした二七才から約二〇〇〇点(約八七〇点が油彩画)の絵を描きます。映画は、燃え上がるように絵を描いた南フランスのアルル時代、そして病気で苦しむゴッホを見せました。

 フィンセントはオランダ南部の町ズンデルトで牧師の長男として生まれます。一六才でグーピル商会という画商で働き始めます。彼を生涯支え続けた四才下の弟テオドルス(通称テオ)も後にここで働きます。

 私生活でのトラブルや勤務態度などの理由で一八七六年三月末に解雇されます。その後、父と同じ聖職者になりたいと、大学の神学部への受験勉強や伝道師養成学校に通いますが、うまくいきません。

 一八七八年十二月にベルギーの炭鉱地帯ボリナージュで伝道活動を始め、仮免許とわずかな報酬を得ています。子どもたちを教え、事故で傷ついた炭坑夫たちを看護するなど、貧しく虐げられた人々に寄り添い働きました。しかしそれが行き過ぎと批判されて、半年で伝道師を解雇されます。

画家をめざす

 ゴッホはそれから一年ほどこの町にとどまり、貧しい人々の暮らしや姿を描きます。この時に聖職者への道を断念し画家として生きる決意を熟成していきました。失業と失意の中で「思い」を「絵」に託す画家へと進みました。

 この頃から生涯にわたるテオの生活費支援が始まります。

 一八八〇年にブリュッセルに出たり、父の住むエッテンへ、またハーグ、ヌエネンなどと移り住みながら絵を描き続けます。アカデミーに通ったり、親戚の画家に指導を受けたり、また独学でと様々な形で絵の勉強しました。

 一八八五年に父が死に、翌八六年にテオを頼りにパリにいきました。この間に、初めての本格的な作品と言われる「馬鈴薯を食べる人々」を描いています。

 パリでは、ロートレックやベルナール、ゴーギャンといった無名の若い多くの画家たちと知り合いました。浮世絵にも魅了され三五〇点ほど収集しています。

 しかしゴッホは大都市での生活に疲れます。一八八八年二月に南フランスのアルルに向かいました。そして一〇月からポール・ゴーギャンと共同生活を始めますが、この生活も二ケ月と持ちません。彼らが別れた夜、十二月二三日ゴッホは片耳を切り落としました。

 アルルの病院に入院しますが、すぐに退院しました。しかし幻覚と妄想に悩まされ、また発作を起こします。一八八九年五月、自分からサン=レミの療養院に入ります。さらに一八九〇年五月に芸術家に理解のある精神科医のポール=フェルナン・ガシェ博士のいるオ-ヴェル=シュル=オワ-ズに居を移しました。

 ここで七月二九日ゴッホは自殺ともいわれる銃創でこの世を去ります。

 一八八九年から、たびたびの発作に悩まされながらも、その合間にゴッホは精力的に絵を描き続けました。

振られてばかり

 聖職者への道もダメで、絵も懸命に書き続けましたが、生前は全くと言ってほど評価されず、売れません。同じように、女性関係も振られっぱなしの人生でした。

 グーピル商会ロンドン支店の時代、婚約者のいた下宿屋の娘(遠縁の娘?)に横恋慕し失恋します。エッテンでも未亡人の年上の従姉妹に恋をして、手ひどく振られます。ハーグ時代には娼婦と同棲します。一年半ほど暮らしますが、家族等の反対もあり別れました。一八八四年にも近所に住む年上の女性と恋仲になり、彼女が自殺未遂をするという事件を起こしています。

 パリでも恋をしアルルでも馴染みの娼婦が出来ます。惚れやすい性格ですが、とうとう伴侶に巡り合うことはありません。

参考資料:「ゴッホ〈自画像〉紀行/木下長宏」「ゴッホゴーギャン―近代絵画の軌跡/木村泰司」