8月例会『デスティニー・イン・ザ・ウォー』

今週の金曜日土曜日に『デスティニー・イン・ザ・ウォー』を上映します。

土曜日は永田喜嗣さんの講演もあります。

上映時間、作品の紹介等は映画サークルのHP

2019年8月例会『デスティニー・イン・ザ・ウォー』 | 神戸映画サークル協議会(神戸映サ) - KOBE Cinema Circle Association

をご覧ください。

この映画は、アジア太平洋戦争開戦の翌年4月に、米軍の爆撃機16機が突如東京等の日本本土の大都市を空襲した事件を契機として始まります。

中国大陸に不時着したこの爆撃機の搭乗員と現地の中国女性のほのかななる心の交流を描きました。

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私も担当しまして、作品の背景を描きました。ここのその空襲「ドーリットル作戦」を紹介した文章を載せます。

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日本空襲とドーリットル作戦

 

リメンバー・パールハーバー

 『デスティニー・イン・ザ・ウォー』は日本が中国大陸に侵略した日中戦争を背景にした中国映画です。この映画の出だしは日米開戦の初期にあった、十六機の米軍機による日本本土空襲でした。

作品の背景として、その空襲(作戦の指揮官の名前を取ってドーリットル作戦という)について紹介します。そして戦争末期に日本全土を徹底的に破壊した無差別空襲も簡単に書きます。

 一九四一年(昭和十六年)十二月八日、アジア・太平洋地域において日本は英国米国に攻撃を仕掛け、宣戦布告します。戦火が地球全体を覆う文字通り世界大戦となりました。

開戦からしばらくは予想以上に日本の勝ち戦が続いていました。米国ルーズベルト大統領は国民の戦意を鼓舞するために「リメンバー・パールハーバー」と真珠湾奇襲攻撃の報復を打ち出し、日米の戦局を転換させるために、陸海軍に日本本土、その帝都東京を爆撃する作戦を指示しました。

 陸海軍とその航空軍が協力して作戦本部を立ち上げます。彼らは飛行距離の長い陸軍のB25ミッチェル爆撃機を空母で運ぶことを考えます。

この作戦の困難な点は、日本本土の近くに米軍基地がないために爆撃機を運ぶ空母を、日本軍の制海している海域に侵入することです。B25は離着陸距離が長く、発艦は出来ても着艦は出来ないことから、日本本土を空襲した爆撃機は、そのまま西進し中国大陸に着陸する計画を建てました。

 米軍は陸軍航空軍ジム・ドーリットル中佐を隊長として十六機八〇名の部隊を編制します。そして最新鋭空母ホーネットに艦載して、密かにサンフランシスコから太平洋を西に向かいました。

ドーリットル作戦の戦果

 ホーネットを護衛するために空母と重巡洋艦駆逐艦などで組織された機動部隊は、千葉県犬吠崎から四〇〇海里(約七四〇㎞)沖合をめざします。一九四二年(昭和十七年)四月十八日の午後にB25を発艦させ日本本土には夜間空襲する計画です。

 中国軍には翌日の明け方に到着する予定を連絡していました。

 攻撃目標は東京及び大都市の軍事施設、工場が選定され、皇居は日本人を刺激しないために避けるように命令されていました。

しかし一八日早朝に漁船改造の哨戒艇「第二三日東丸」(後に砲撃などを受けて沈没、乗員死亡)に発見されたことにより七時間も前倒しで、六二〇海里(約一一四八㎞)沖合から発艦しました。

機動部隊出撃後は、敵に位置を探られないために無線を使用できず、その変更は誰にも知らされていません。

 午前七時二〇分、西太平洋上からドーリットル中佐を乗せた一番機が発艦しました。五分ほどの間隔をあけて次々と十六機すべてが飛び立ち、東京、川崎、横須賀、名古屋、神戸などに爆弾を落とし機銃掃射を浴びせました。爆撃機は燃料を節約するために編隊を組まず、一機ずつで空襲しました。

 この時の被害の正式な資料はありません。参考資料によると人的損傷五四九人以上(うち死者八七人)、建物半壊半焼以上約三〇〇戸となっています。決して小さいものではありませんが、大本営発表は「被害は軽微、敵機九機撃墜」でした。

空襲の後、爆撃機は一機がソ連ウラジオストックに着陸した以外は中国大陸をめざしました。しかし中国大陸に到着したのが夜になったために、すべて山野、海岸などに墜落もしくは不時着し、乗員はパラシュートで脱出します。その時に三名が死亡そして八名が捕虜(三名銃殺、一名病死)となりました。

残り六九名は、映画のように中国軍やソ連軍の手助けを得て米国に生還しています。

 日本軍は、敵空母の発見位置が六〇〇海里と遠いことから、一九日以降の来襲を見込んでいました。そのために迎撃機の配置などが遅れ、B25を友軍機と誤認するような事態もありました。遅ればせながら高射砲などで反撃しましたが一機も撃ち落すことなく逃しています。

戦局に与えた影響

米軍にとって爆撃機一六機すべてを失ったことは大きな損害ですが、ルーズベルト大統領は軍からの報告を聞いて大喜びし、米国民も政府からの公式発表はないものの「東京爆撃さる」のニュースに沸き立ちました。

日本側は、本土防衛を担う陸軍、海上哨戒する海軍ともに大きなショックを受けました。 そのために南方方面軍の航空機を本土に呼び戻し、各地の高射砲陣地等を増強しました。

爆撃機が中国大陸に向かったことから、陸軍は支那方面軍を大幅に増強し総力を挙げて浙江省江西省にある中国軍の飛行場を徹底的に破壊しました。

航空部隊の空襲は六百回以上、中国軍の損害は五万人、農民の被害は二五万人という記録があります。

そして海軍はかねてより計画していたミッドウェイ作戦を早めました。

無差別爆撃

 ドーリットル作戦は一時的なものでしたが、それから二年を経て「超空の要塞」B29爆撃機が製造され、本土に近いサイパン島に米軍基地が作られ、本格的な本土空襲が開始されます。

 四四年六月中国、成都基地より北九州へ、同年十一月サイパンから東京へが大空襲の皮切りです。

最初は軍事基地、工場などを狙う精密爆撃でしたが、日本を敗戦に追い込むために、市民生活と地域全体を壊滅させる無差別、絨毯爆撃へと変わっていきます。

空襲は日本国中に及び、原子爆弾まで落としました。空襲回数二千回、投下された焼夷弾二〇四〇万発、死者四六万人という犠牲者が出ました。

 無差別爆撃を推し進めた指揮官はカーチス・ルメイ将軍、当時三八歳でした。戦後、日本は航空自衛隊の育成に貢献したと言って彼に勲一等旭日章を授与しています。(Q)

参考資料:「ドーリットル空襲秘録」柴田武彦・原勝洋/「ドゥーリトル日本初空襲」吉田一彦/「本土空襲全記録」NHKスペシャル取材班