フジコ・ヘミングの『たどりつく力』『やがて鐘は鳴る』『私が歩んだ道、パリ』と『世界10月号』『前衛10月号』を書きます。
フジコ・ヘミング『たどりつく力』『やがて鐘は鳴る』『私が歩んだ道、パリ』
これらはみんなフジコ・ヘミングのエッセイ集です。彼女が自分の人生を振り返りながら、その時のことや今から振り返ったことなど綴っています。とても読みやすいし、彼女の考え方生き方がよくわかります。しかも文体がとても魅力的です。彼女の語り口調なのかもしれません。
1932年生まれで1999年にNHKのドキュメンタリーが彼女の人生を変えました。それ以後、世界中を演奏して回っています。還暦以後に大活躍されて、そして今年24年4月21日に亡くなりました。
映画サークル12月例会『フジコ・ヘミングの時間』の解説を書くために読みました。ちょっと長いですが、それを載せておきます。
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フジコ・ヘミングのプロフィール
太い指が白と黒の鍵盤の上で踊ります。「艶やかなピアニスト」とは不似合いですが、その指が唯一無二の、フジコ・ヘミングの魅力的なメロディを奏でます。
『フジコ・ヘミングの時間』は彼女の独白と演奏で綴るドキュメンタリーです。この映画は二〇一八年に公開されていますが、その現在の生活スタイル、生き方考え方が描かれ、時折、彼女が子ども時代に書いた絵日記を挟み込んで、生い立ちを語ります。
六〇歳を超えて、改めて、その才能を世界的に認められたピアニストの魅力が一杯です。解説や背景などは不要の映画ですが、彼女がたどった人生を追ってみます。
ベルリンで生まれる
本名はゲオルギ-・ヘミング・イングリット・フジコ。一九三二年十二月五日ベルリンで生まれます。母の大月投網子がピアニストとしてベルリンに音楽留学をして、父ジョスタ・ゲオルギ-・ヘミング(建築家で画家のスウェ-デン人)と出会って結婚しました。
フジコの後に二つ下の弟、大月ウルフが生まれます。
家族は、フジコが五歳の時に母の母国である日本に帰国します。東京で暮らし始め、彼女は母からピアノを習い始めました。一〇歳から父の友人であった世界的なピアニスト、レオニード・クロイツァ氏に師事します。
しかし父は、戦時下の日本から家族を残してスウェーデンに帰ってしまいます。それ以来会うことはありません。
戦争が終わった後、一六歳の時に中耳炎で右耳の聴力を失うが、東京音楽学校(現:東京芸術大学)に進みます。一九五三年にNHK毎日コンクールに入賞するなど、在学中に多数のコンクールで賞を得て、将来を嘱望されていました。
学校を卒業して演奏活動に入りますが、一九六一年にベルリン音楽学校(現:ベルリン芸術大学)に留学します。その時に無国籍になっていることが分かり、関係者の配慮で赤十字の難民という扱いで日本を出ました。(後にスウェーデン国籍を取得)
ベルリンでの生活は、奨学金と母からの仕送り百ドルという貧しい生活で、周囲の人々ともなじめなかったようです。「どん底の人生」と書いています。
学校は優秀な成績で卒業しました。しかし苦しい生活は続きます。
一九七〇年世界的な音楽家レナード・バーンスタイン等の推薦を受けて、ウィ-ンでリサイタルを行います。しかし、その直前に風邪をこじらせて左耳の聴力を失うというアクシデントに見舞われました。(治療によって現在は四〇%ほど回復)
失意の日々ですが、ピアノ教師で生活しながら、地道に欧州各地でコンサート活動を続けました。
母の死後一九九五年に日本に帰って来ました。母の残した東京都の下北沢の家で暮らし始めます。
今も現役ピアニスト
一九九九年二月にNHKが『フジコ~あるピアニストの軌跡~』を放映します。これに大反響があり「フジコ・フィーバー」を日本中に起こしました。同年の夏にリリースしたデビューCD『奇跡のカンパネラ』が大ヒットします。これは二百万枚というクラシック界異例の記録的な売り上げを達成しています。
これを契機にフジコ・ヘミングは世界的に認められます。世界の名だたるオーケストラと共演し、二〇〇一年にカーネギーホールに三千人を集めるリサイタルを成功させました。
世界各地を飛び回る音楽活動を続けました。
彼女のオフィシャルサイトを見ると、現在でも驚異的なコンサート活動を行っています。九一歳になる十二月に、国内六カ所を回ります。
これを書くためにフジコ・ヘミングのエッセイ集を読みました。多くの苦難を越えてきた、その生き方考え方も魅力的ですが、文体がとてもいいのです。ふわふわしていて、品があって軽やかに言葉も踊っているような感じでした。
『世界10月号』
特集1『瀕死の1.5°C目標―政治よ目覚めよ』特集2『日本政治の底―ポスト岸田の論点』でした。次期の自民党総裁選に立候補しないといった岸田首相の本質を書いた記事を紹介します。
著者は朝日新聞の編集委員です。彼女をして首相になった直後は、岸田にわずかながらも「期待」したと書いています。それはいわゆる宏池会の長であったことです。
「異論に耳を傾ける、国会で十分に審議する、それくらいのことは普通にやるだろ」です。しかし大間違いでした。
岸田の思想は「基本きっとなんでも、どうでもいいのだ」と喝破しています。期待を裏切ったことに対しても「『思想』や『主義』を持たぬ者に『転向』は出来ない」と言い放ちます。
私もその通りと思います。それはタイトルの「一番病」です。何かを実現したいから首相をめざしたのではなく、ただただ一番になりだけの男です。
もう一つ、世界的な影響を与える中国のことを書いたものです。
前例を破って3期目に入った習近平政権のこれからについて分析しています。
現在の中国経済の失速は、前の胡錦涛政権が市場経済の「ほぼすべての改革をストップ」したためといいます。中国経済を押し上げたのは巨大民間企業であったのに、そこを締め付け国有企業の支援に回ったことで、しかも習近平政権もそれを踏襲しています。さらにG7に敵対的な外交政策も失策だと指摘しています。
コロナ禍で多数の中小企業が倒産したこと、習主席のイエンスマンに構成された政権等により「中国経済の減速は予想以上に長期化する」と結びました。
確かに、私の印象も「自由化」よりも「規制」を強める政権と思います。対米政策が過剰なくらい対立的な感じです。
『前衛10月号』
特集『AI、GAFAと資本主義』
「AI技術をめぐる競争・国家戦略の新段階と資本主事的充用/藤田実」「ネット通販からクラウドサービスへ―巨大化するアマゾンとその民主的規制」「急増する軽貨物ドライバー―ネット通販の拡大と宅配クライシスの陰で」という記事がありましたが、とてもまとめられないので、私の最も関心のあった記事を紹介します。
「『新たな戦前』の時代に沖縄戦をどう学ぶか/山口剛史」
著者は琉球大学の先生ですが、平和教育の実践で、ウクライナ戦争と沖縄戦を重ね合わせるように授業を行い、そこでの学生の反応を書いています。
その前提として、山口さんは映画『島守の塔』の島田叡知事の描き方を批判し、沖縄も含めた島田叡の「再評価」の問題について書いています。
私もこの映画における島田叡知事の描き方に疑問を持ちました。しかし沖縄戦や沖縄県の役割などにあまり知識がなかったので、私の映画評は現代の沖縄に寄り添っていないという批判でした。
山口さんは明確に島田叡知事は「県民を戦争に動員するために大きな役割を果たした」そして映画は「沖縄戦における軍官民共生共死の一体化」を見えなくした、と批判しています。
彼の授業の核心は「軍隊は住民を守らない」「戦争に参加・協力する体制がつくられる」ことを知り、考えることです。