『ラインの監視』

神戸演劇鑑賞会の10月例会は劇団昴の標記の芝居です。

このチラシからは、どんな芝居か分かりにくいですが、以下に紹介を載せます。
演劇鑑賞会は年に1回、サークルが「運営サークル」例会を担当する制度がします。私は『ラインの監視』を担当しました。これは1940年初演のリリアン・ヘルマンの戯曲です。
台本読んで、まだ見ぬ芝居への感想と紹介を書きました。ちょっと長いですが、まあ読んでください。
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過去に学び、現代を踏まえて―『ラインの監視』台本を読んで 
どんな時代だったか
 この芝居は、時代を考え、当時の出来事を時系列で理解することが重要です。リリアン・ヘルマンが戯曲を書きそして初演された時期、戯曲が描く時期、それらとこの戯曲にかかわる世界の出来事を重ね合わせるとヘルマンの意図が浮き彫りになります。
一九三三年ヒトラー政権獲得/三六年スペイン内戦/三九年共和派敗北、第二次世界大戦勃発/四〇年芝居の時期、フランス降伏、日独伊3国同盟/四一年芝居の初演、独ソ戦開始、真珠湾攻撃と米国の参戦/四二年スターリングラード攻防戦ミッドウェー海戦/四三年映画化、イタリア降伏/四四年ノルマンディ上陸作戦/四五年ドイツ降伏、日本降伏
ちなみに映画『チャップリンの独裁者』は一九四〇年九月から上映が開始されます。
 芝居の年である一九四〇年は、スペインの共和国政府に対しフランコ将軍が起こした軍事クーデターをドイツ、イタリアが支援したためファシズム派が勝利し、そしてナチス・ドイツポーランド侵攻を始め、イギリス、フランスが宣戦布告する第二次世界大戦が勃発した翌年です。
アメリカは直接参戦せずに、四一年になってもモンロー主義を掲げ「連合国の武器庫」にとどまっていて、欧州の戦争に消極的でした。
ヘルマンは、この静かな芝居でアメリカ国民に対して「それでいいのか」と問いかけました。同じ時期にC・チャップリンも『独裁者』をつくり「民主主義のためにファシズムと戦おう」と呼びかけました。
 そういう芝居を私たちはどう見ればいいのか、現在の日本で、私たちはヘルマンの呼びかけにどう応えればいいのか、考えました。
クルトとファニー
 ワシントンDCの郊外、広大な大邸宅、ファニー・フェアリーの家族たちはのんびりと朝食の時間です。芝居は一九四〇年晩春、いっけん平和な日常ですが、欧州では第二次世界大戦が始まっています。ナチス・ドイツは快進撃を続け、ポーランドソ連と分割占領し、デンマーク、オランダを席巻します。パリ陥落、フランスの降伏も間近という時期です。
 民主主義の危機が叫ばれ、ファシズムと戦おうという声が起こり始めました。
 にもかかわらず米国の上流階級の人々はのんきに暮らしている、という風景です。そこへドイツ人と結婚していた娘一家が二〇年ぶりに帰ってくることで、一気に緊迫した世界情勢が持ち込まれます。
 焦点は娘婿クルトです。長身痩躯のドイツ人は、反ナチスの活動家でスペイン内戦を共和国政府側義勇軍として戦ってきたことが明らかにされます。その後も欧州各地で抵抗運動を実践し、子どもを含めた家族ぐるみでナチスと戦ってきた様子がうかがえます。
 その覚悟の程は、反ナチス活動のリーダーであり、親友、命の恩人が捕まったと聞き、クルトが「欧州に帰る」という決意を示した時に見えます。それが死を覚悟したものと知りつつも、家族の誰も引き留めようとしません。子どもたちも悲しみに耐えています。その健気さが、かえって悲しみの大きさを伝えます。
 クルトが爪弾く「ラインの守り」は、普仏戦争(一八七〇年)の時代に歌われたドイツの愛国軍歌です。ファシズムと戦う者こそが、真のドイツの愛国者だというように、この芝居の題名につながってきます。
 『レ・ミゼラブル』を引き合いに、暴力や殺人、窃盗はどのような社会であっても許されないというクルトが、しかし必要とあればそれを断行する姿を見せる、これがこの芝居の焦点です。そして平穏な家庭の幸せを振り捨てていくクルトを描き、崇高な人間の姿を示します。
 時代の情勢をしっかりと捉え、人間の生き方として最も大切にするべきものは何なのか、リリアン・ヘルマンの明確な主張が見えてきます。そしてリベラルな上流階級の典型である、フェアリー一家の人々に「色々な困難が訪れる」「ベストを尽くしましょう」と言わせ、全米国民の奮起を促す言葉で締めくくりました。
九条のある日本で
 現代、平穏な日々の日本に暮らす私たちは、クルトの英雄的な姿に感動するのでしょうか。家族との幸せを捨てて、友情と使命に身を殉じる男は、確かにかっこいいのですが、それを実践することは非常に困難です。
 しかしクルトの殺人を許容し、彼を支援するフェアリー一家を当然のことだとみています。この感情は、ナチス侵略戦争を起こし、ユダヤ人虐殺などを実行した悪であることが明白であるからです。
 日本人は、かつて同盟国であったナチスと身を捨てて戦う男は正義だとみて、彼を応援します。ところが中国大陸で暴虐を働いた日本軍を見ることは不快で、そういう姿を描く映画を反日映画だと言って、上映には消極的になります。原爆や沖縄戦など庶民の戦争被害を描く映画は受け入れても、加害責任を問うものは作るのも難しく、本当の意味で過去に学んでいると言い難いところがあります。
さて一九四〇年の世界とアメリカ、二〇一七年の世界と日本を比べてみると、2つの共通点があります。一つは対岸に燃え盛る戦火がある一方で、平和な日常の暮らしがあるということです。
二一世紀の地球では、長年続くイスラエルの侵略とパレスチナの抵抗、二〇〇一年以来のアフガニスタン戦争、イラク戦争や中近東のシリア、イエメン等の内戦、そして南スーダン等アフリカ諸国の内戦、あるいは旧ソ連邦内の紛争もあります。
世界中は戦火にまみれ、それ以外の戦場ではない国々でも、テロの恐怖が日常的なものになっています。
日本は、これまで憲法9条により「戦闘地域」への自衛隊派兵は禁止されていました。それを一部の無責任な人々は「平和ボケ」という批判を浴びせますが、アフガニスタンの現状などを見ると、外国から軍隊を大量に投入しても、武力では平和は取り戻せないことは明らかになっています。
クルトは、やむなく暴力を行使します。それは第2次世界大戦の一つの側面「民主主義とファシズムの戦い」を象徴するものです。芝居は民主主義側で戦え、と言っています。
しかし現代ではそれに同調するわけにはいきません。9条の下で対岸の戦火にどう向き合うのか考えないといけません。
嘘を見抜いて
 そしてもう一つは先進資本主義国での極右勢力の伸長です。人種差別や宗教差別などを公言する米国のトランプ大統領に代表される極右の政治勢力が、経済格差や貧困による国民の不満に付けこみ、移民や難民の排斥等、国家主義的な政策を掲げて、支持を拡大しています。しかも権力が偽ニュースを流しています。
 日本でも、安倍政権は詐欺的なアベノミクス小選挙区制度で圧倒的な議席を得て、秘密保護法、集団的自衛権容認、戦争法、共謀罪法と国家権力を強め、言論の自由、思想信条の自由を制約する法制度と自衛隊の海外派兵を強化する社会につくり変え、さらに九条改憲へと進もうとしています。
 あの時代も、ナチスは、第一次世界大戦の後の混乱するドイツで、ユダヤ人排斥などデマの流布と巧みな選挙戦術によって短期間のうちに政権につきました。そしてヒトラー総統の下で軍事費による景気浮上と愛国心を鼓舞し、国民の圧倒的な支持を得て独裁政権を作り上げました。
 日本では軍部が力を持ち、言論統制を受け入れ、国民も「満蒙は日本の生命線」と信じ込み、「開拓団」と称して他人の土地を奪っていきました。隣組など相互監視も強化されました。
 現代では、一九四〇年の『ラインの監視』のように、単純にファシストを「敵」とすることはできません。自由と民主主義の名による戦争もあります。
今年、国連で核兵器を廃止する国際条約が122か国の賛成で作られました。核兵器を持つ国や核の傘にいる国は反対し、唯一の被爆国である日本も反対しています。今後は、各国民が自国をこの条約に批准させる「単純な運動」を大きくすることです。
この芝居が示唆するのは、身の回りのことだけを見るのではなく、現在の世界の情勢、日本の情勢をよく見ること、知ること、嘘を見抜くことだと思います。そして、そこから勇気を持った一歩を踏み出すことを促しています。