2023年12月に見た映画

60アイヒマンが処刑された日』『フラッシュオ-バ-炎の消防隊』『フジコ・ヘミングの時間』『NO選挙 NO LIFE』『シン・ちむどんどん』『パーフェクトデイ』6本でした。やはり学校が休みになるとちょっと見やすい感じです。年末はそれなりに用事があるので、そこはいけませんでしたが、それまでに頑張ってみた感じです。

 短く書けばいいのですが、映画サークルに書いたものと9条の会に書いたものを再掲するので、ちょっと長くなり、2回に分けます。

60アイヒマンが処刑された日』

 ちょっとわからない映画でした。ナチスドイツのユダヤ人虐殺の責任者であったアドルフ・アイヒマンイスラエルの秘密組織に捕まり処刑された後、その遺体を焼却処分しました。

 映画は、火葬の習慣のないイスラエルで、そのための炉を小規模な町工場でつくったという話でした。

 リビアからやってきたアラブ系の少年が、それに関わり、いわばドタバタに近いような日常的な出来事があって、無事にアイヒマンを処刑し遺体も焼きました。

 最後は現代に飛んで、かつての少年が雑誌社に、その事の真相を売り込みに来たという締めくくりでした。

 そういうことを言って、現代のイスラエルでどのような影響があるのか、わかりません。

『フラッシュオ-バ-炎の消防隊』

 中国の映画です。化学工場のコンビナートで大火災が発生して、消防士たちが生死をかけて消火に挑む映画でした。

 姫路の日本触媒の火災を連想しましたが、それをはるかに超える規模の工場群であり、火災です。訓練された消防士と最新鋭の大規模な消火ロボット・機器が総動員でやってきます。ミサイルのようなものもありました。

 そういった機器と消防士たちの使命感、団結、思いやりなども含めて何か国威発揚の感じのする映画でした。

フジコ・ヘミングの時間

 市民映画劇場12月例会です。機関誌に解説を書いたので、ちょっと長いですが、それを再掲します。

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フジコ・ヘミングのプロフィール

 太い指が白と黒の鍵盤の上で踊ります。「艶やかなピアニスト」とは不似合いですが、その指が唯一無二の、フジコ・ヘミングの魅力的なメロディを奏でます。

 『フジコ・ヘミングの時間』は彼女の独白と演奏で綴るドキュメンタリーです。この映画は二〇一八年に公開されていますが、その現在の生活スタイル、生き方考え方が描かれ、時折、彼女が子ども時代に書いた絵日記を挟み込んで、生い立ちを語ります。

 六〇歳を超えて、改めて、その才能を世界的に認められたピアニストの魅力が一杯です。解説や背景などは不要の映画ですが、彼女がたどった人生を追ってみます。

ベルリンで生まれる

 本名はゲオルギ-・ヘミング・イングリット・フジコ。一九三二年十二月五日ベルリンで生まれます。母の大月投網子がピアニストとしてベルリンに音楽留学をして、父ジョスタ・ゲオルギ-・ヘミング(建築家で画家のスウェ-デン人)と出会って結婚しました。

 フジコの後に二つ下の弟、大月ウルフが生まれます。

 家族は、フジコが五歳の時に母の母国である日本に帰国します。東京で暮らし始め、彼女は母からピアノを習い始めました。一〇歳から父の友人であった世界的なピアニスト、レオニード・クロイツァ氏に師事します。

 しかし父は、戦時下の日本から家族を残してスウェーデンに帰ってしまいます。それ以来会うことはありません。 

 戦争が終わった後、一六歳の時に中耳炎で右耳の聴力を失うが、東京音楽学校(現:東京芸術大学)に進みます。一九五三年にNHK毎日コンクールに入賞するなど、在学中に多数のコンクールで賞を得て、将来を嘱望されていました。

 学校を卒業して演奏活動に入りますが、一九六一年にベルリン音楽学校(現:ベルリン芸術大学)に留学します。その時に無国籍になっていることが分かり、関係者の配慮で赤十字の難民という扱いで日本を出ました。(後にスウェーデン国籍を取得)

 ベルリンでの生活は、奨学金と母からの仕送り百ドルという貧しい生活で、周囲の人々ともなじめなかったようです。「どん底の人生」と書いています。

 学校は優秀な成績で卒業しました。しかし苦しい生活は続きます。

 一九七〇年世界的な音楽家レナード・バーンスタイン等の推薦を受けて、ウィ-ンでリサイタルを行います。しかし、その直前に風邪をこじらせて左耳の聴力を失うというアクシデントに見舞われました。(治療によって現在は四〇%ほど回復)

 失意の日々ですが、ピアノ教師で生活しながら、地道に欧州各地でコンサート活動を続けました。

 母の死後一九九五年に日本に帰って来ました。母の残した東京都の下北沢の家で暮らし始めます。

今も現役ピアニスト

 一九九九年二月にNHKが『フジコ~あるピアニストの軌跡~』を放映します。これに大反響があり「フジコ・フィーバー」を日本中に起こしました。同年の夏にリリースしたデビューCD『奇跡のカンパネラ』が大ヒットします。これは二百万枚というクラシック界異例の記録的な売り上げを達成しています。

 これを契機にフジコ・ヘミングは世界的に認められます。世界の名だたるオーケストラと共演し、二〇〇一年にカーネギーホールに三千人を集めるリサイタルを成功させました。

 世界各地を飛び回る音楽活動を続けました。

 彼女のオフィシャルサイトを見ると、現在でも驚異的なコンサート活動を行っています。九一歳になる十二月に、国内六カ所を回ります。

 これを書くためにフジコ・ヘミングのエッセイ集を読みました。多くの苦難を越えてきた、その生き方考え方も魅力的ですが、文体がとてもいいのです。ふわふわしていて、品があって軽やかに言葉も踊っているような感じでした。

参考:公式サイト、エッセイ集『たどりつく力』『やがて鐘は鳴る』『私が歩んだ道、パリ』