『スノーデン』『オン・ザ・ミルキー・ロード』『君の膵臓がたべたい』『鏡は嘘をつかない』『サーミの血』『三度目の殺人』、10月はちょっと少なくて6本でした。高島市にハーフマラソンに行ったり、昨日28日は法事(おばあさんの50年祭)で姫路に帰ったので、時間が取れませんでした。仕方がない。
今月の収穫は『スノーデン』でしたが、西神9条の会のHP11月号に書いたので、そちらを見てください。『鏡は嘘をつかない』は映画サークルの例会で、これもいつかどこかでかみます。
ということで『サーミの血』と『三度目の殺人』を書くことにします。『オン・ザ・・・』はちょっと分からなかったのでかけません。『君の・・・』は典型的な難病モノで、「もう少しひねれよ」ぐらいの感想です。
差別は哀しい
1930年代のスウェーデンの話です。スカンジナビア半島の北部に暮らす先住民族サーミ人の少女が、サーミ人であることをやめて、スウェーデン人として生きる人生を選択した悲哀を描きます。
映画のコピーは「少女が願ったことは自由に生きること」というコピーがついていますが、ちょっと違います。この映画のHPで監督自身(サーミ人とスウェーデン人の混血)が、スウェーデン人となっていった多くのサーミ人を見て「彼らが本当の人生を送ることが出来たのだろうかと常々疑問に思っていました」と言っています。
この映画は、そのことをズバリと描いたと思います。
映画は、一人の老女クリスティーナが半世紀ほどの年月を経て、妹の葬式に故郷ラップランドに帰ってきたところから始まります。彼女の顔には深いしわが刻み込まれていますが、眼光はするどく、年齢に相応しい穏やかさが感じられません。
映画はサーミ人の名エレ・マリャを持つ彼女の回想を描きました。
出自を隠して、エレ・マリャがダンスパーティに紛れ込んでも誰に疑われないほど、姿かたちはスウェーデン人もサーミ人も変わりません。
しかし彼らは能力が劣る「人種」として実験動物のような扱いを受けていました。
彼女は寄宿学校を抜け出て、クリスティーナとして生きる道を選んだのです。多くの困難があったでしょうが、映画はそれを描きません。
人種はないが民族はある
ナチス・ドイツは600万人ものユダヤ人を虐殺し、米国を人種主義の国だと思っていますが、そこまで酷くなくてもスウェーデンでも同じことがあったことを知りました。
日本人もアイヌや琉球人を差別してきましたし、いまでも沖縄は酷い状態です。
まずはっきりさせたいのは人類は生物的に1種類で人種と言うものはないということです。しかし肌の色で黒人や白人、黄色人と分類して差別してきました。そして文化や言語がちがう民族は多数ありますが、その違いも利用して差別してきました。
人間は、なぜ差別するのか、よくわかりませんが、人間は「優位にたちたい」と言うことだけかなと思います。この映画を見ていて、スウェーデン人の教師が美人ですが非常に厳しくエレ・マリャに接して、スウェーデンの言葉や文化を教えるのです。しかし最後は何の根拠もなくサーミ人はスウェーデン人とは違う、「能力が劣る」と決め付けるのです。
スウェーデンの文化を与えながらも、差別だけはする、というものです。
もう2段階ぐらい深く
是枝監督の『三度目の殺人』は、ミスキャストと殺人を犯す人間の心の闇を浅くしたために、失敗作だと思います。
殺人犯三隅に役所広司を持ってきたことが間違いで、30年前に借金取りを殺し、今また、元の雇い主を殺す犯人像、いわば簡単に殺人まで行ってしまう、「器」と言う表現をしますが、ある意味で異常人格者的な犯人なのに、そうは見えないのです。
それと殺人の動機を警察、検察があまり深く考えていない描き方、あるいは物証が少なく自白が大きなウエイトを締めているために、冤罪の可能性を持っているにもかかわらず、弁護士重盛の人権意識が薄すぎる感じがします。
真犯人をぼやかしたと言いますが、この映画のつくり方だと、三隅しかいなくて、「三度目」というのは、30年前、今回、そして自分自身への死刑だと思いました。
是枝監督は誰かと共同脚本したほうがいいと思います。彼のドキュメンタリーはとてもいいのですが劇映画では、私には穴だらけと思ってしまう映画が多いのです。