2023年9月に見た映画その2

『聖地に蜘蛛が巣を張る』『クーダ殺し屋の流儀』『離れ離れになっても』『福田村事件』残り4本です。

『聖地に蜘蛛が巣を張る』

 イランの実話に基づくサスペンス映画でした。

 

イランの聖地マシュハド(人口350万人、イラン第2の都市)で、娼婦の連続殺人事件が起きます。犯人から「街を浄化する」という犯行声明があり、一部の市民はそれを英雄視します。

 殺人犯の男、その家族も含めた、女を蔑視するイスラム社会の暗い深みを描いています。

 娼婦連続殺人事件を取材するために、女性の新聞記者がよその街からやってきます。警察にいくと、からかわれる様に扱われ、彼らはまるでやる気がないように見えます。彼女自身も社内でも差別されていました。

 彼女は自分が売春婦に扮し、囮となって犯人を突き止めようとしました。犯人に誘われてバイクに同乗します。同僚に追跡してもらいますが撒かれます。

 映画は早くから犯人を明らかにして、彼の生活と犯行動機、犯行を映していきます。女性記者と対比するようです。

 映画の焦点はなぞ解きではなく、イラクイラン戦争に従軍し、その後は肉体労働者として働く犯人像でした。家族を持つその男は、娼婦の一掃こそが神の刑事だと信じ込んでいました。ラストシーンはその男の思いは息子に受け継がれたと描きました。

 この監督はイランに失望しているとみました。 

『クーダ殺し屋の流儀』

 米国映画です。

 冷酷で腕利きの殺し屋クーダが、ちょっとかかわった、自分の娘の同じ年ごろの家出娘を救い出すために、それまで属していた組織と戦うという、ありきたりのストーリーです。

 脇役の若い男の話も、女に惚れてという、ありきたりでした。

 でもアクションが派手で面白く見てしまった。

『離れ離れになっても』

 映画サークルの例会です。イタリア映画で、高校時代から仲の良かった3人の男と1人の女の40年間のつかず離れず、愛憎を交えた人生を描きました。イタリアらしい映画でした。

 男3人は、弁護士から大企業の社長に出世した男ジュリオ、真面目に働くがいつまでも正規で雇ってもらえない教師パオロ、映画業界で働き始めるが、失業を繰り返し家族に見捨てられる男リッカルドです。女ジェンマは、最初はパオロと暮らしていましたが、いつしか力強いジュリオに乗り換えました。

 それぞれが悲喜こもごもの人生を経て、4人は再開します。ともに新年の花火を見るというラストシーンでした。

 人生万事塞翁が馬という映画でした。

『福田村事件』

 関東大震災の時に、普通の日本人に約6000人の朝鮮人が虐殺されました。大混乱の中で理不尽に殺されたのは朝鮮人だけではありません。それはなぜかということを描く映画でした。大災害の何を語り継ぐべきかを明確に示す映画です。西神ニュータウン9条の会HPに投稿としたものを再掲します。

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過去を描き、現代を照射する

 びっくりしたのは、映画の内容より、この映画を見る人が多いということです。公開当初は小さい元町映画館が一杯だと聞き、2週間ほど後にシネリーブルで見ました。この時も半分程度の入りでした。

 実際にあった陰惨な事件の映画と分かっているのに、関心が高いということで、ちょっとうれしくなりました。

 関東大震災から100年であり、自公政権小池都知事朝鮮人虐殺の事実を意図的に隠そうとしている一方で、それに反発したマスメディアがこの映画をより多く紹介したということもあったようです。

フィクションが告発する

 映画の中心は福田村の虐殺事件ですが、朝鮮人たちや社会主義者が殺されていること、日本の朝鮮支配の残酷さにも触れています。さらに村の男女の絡みあいまでも出てくるので「ちょっと盛り過ぎ」と思います。

 映画は震災前の福田村、在郷軍人会の存在の大きさ、村人の日常生活等から描きます。地元紙の新聞記者は、社会主義者朝鮮人に対するデマが広がっている、と危惧し憤慨しています。

 讃岐の行商人たちは被差別部落出身で、かなりい加減な薬を売っているとまで描きます。

 震災後の東京都下では、官憲が社会主義者を無理やり逮捕し、朝鮮人が放火や暴力行為をしているというデマを、意図的に広げ煽っていたと描きました。それを自警団と多くの日本人が信じ込んで、朝鮮人と見れば無差別に虐殺しました。

 村人が行商人たちを殺すシーンは、誇張しすぎの感じがあります。しかし当時、日本にいた朝鮮人8万人に過ぎず、その内56千人が殺されたことから、社会全体が異常であったことがわかります。

 福田村は埼玉県の東側、千葉県の西端にある、今の野田市です。彼らが朝鮮人をどれほど知っていたのか、わかりませんが、伝播してきたデマを信じ込み、人殺しまで行く心理こそが恐ろしいと思いました。

現代に問いかける

 この虐殺を目の当たりにした新聞記者は、自分が「デマをデマと書かなかったからだ」と言いました。

 この映画の焦点はここだと思いました。森監督は、これまでも現代のマスメディアが支配層に忖度して事実の報道をしないことに危惧しています。東京新聞の望月衣塑子記者を追った『i-新聞記者ドキュメント-』でもそれを描きました。

 デマを黙認し、事実を報じないマスメディアは、殺人に加担するとまで言っているようです。現在のパレスチナに通じます。