『スパイの妻』の感想

頑張っているけれども

「映画紹介」への不満

 残念な映画でした。タブーの扱いであった戦中の日本軍の重大な戦争犯罪を告発するという、これまでの邦画が出来なかったテーマを正面に提示しながら、全体的に力足らずに終わった感じです。

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 黒沢清監督は「頑張った」と評価できますが、この映画を紹介する新聞などの評論は全く駄目だと、私は思いました。ベネチア映画祭の銀獅子賞(最優秀監督賞)を取ったので映画評は、好意的に書いています。しかし主役の夫婦が知りえた重大な国家機密(満洲に置かれた、捕虜や敵国人を人体実験に使って生物兵器を開発した七三一部隊)について、その事実や旧日本軍の体質等の解説がありません。七三一部隊という言葉も使っていません。

 映画ではさらりと描いていますが、評論としては、そこが一つの焦点でしょう。

   国家機密を共有することで

 裕福でおしゃれな生活を楽しむ福原優作(高橋一生)聡子(蒼井優)の夫婦は、日本軍の重大な犯罪=国家機密を知り、それを世界に暴露しようと、命を賭して密航を企てます。スパイではありません。

彼らは、政治や国家体制に対する確たる思想を持っていないし、そういう組織にも属さない、一介の市民です。

福原優作は天皇制国家のもとで矛盾を感じることなく商売をしてきた貿易商ですが「愛国者ではなくコスモポリタンだ」と人道的正義を追求します。

時は一九四〇年、中国大陸での侵略戦争は泥沼になり、米英を相手にする世界大戦に踏み込む日独伊三国同盟を結んだ時期です。国際情勢を相手に商売にしていますから、暢気なように見えて、緊張感はあります。取引相手の英国商人が憲兵隊に逮捕され、旧知の憲兵隊長(東出昌大)に注意を受けます。

優作は満洲に行き国家機密を知ります。それは「八紘一宇」「五族協和」という綺麗ごとをスローガンとした日本の侵略戦争、日本軍の本質ともいうべきものです。

彼の同志である甥は、聡子の密告によって憲兵隊に逮捕され、両手の爪をすべて剥がされる拷問を受けます。彼女は憲兵隊の目を福原から逸らそうとしたのです。

最初は反対した聡子も協力して、二人で海外密航を企てます。夫婦の思惑、微妙な駆け引きがあり、結局、妻は逮捕され精神病院に収容されました。夫は脱出に成功します。

戦争の不安と恐怖が伝わってこない

この映画では、わずかに神戸空襲は描くものの、一発で都市を壊滅させた原爆、一晩で一〇万人殺した東京空襲等、戦争の恐怖は伝わってきません。日本の加害性も国家機密だけでした。

映像が、あの時代の空気を映し出しているか疑問です。治安維持法隣組、国防婦人会などで社会全体が締め付けられ、庶民の生活にも相互監視が厳しいのに、その感じがありません。

社員や使用人などに生活感がなく、戦争への不安や高揚感が描かれず、主演三人しか目に入らない映像です。

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翌日に見た『終着駅』(ヴィットリオ・デ・シーカ)では、ローマ中央駅で行き交う人々が生き生きと描かれています。彼らが背負う人生と、美男美女(モンゴメリー・クリフト、ジェニファ・ジョーンズ)の他愛のない、有閑マダムの不倫という俗なテーマが、見事に対比的していると感じました。

それに比べて、この映画は、蒼井優の存在感だけが浮かび上がり、有閑マダムの『「スパイの妻」になった女』という印象に終わりました。