神戸新聞社説「復興区画整理 教訓を東北に生かしたい」3月29日

 東日本大震災のあとは、これまで以上に力を入れて新聞の切抜きを行っています。私ができることをしようと思っています。現地へボランティアに行くことも大事ですが、それぞれが考えて自分のできることをすればいいと思っています。私ができることは批判です。
 的確な批評は決して足を引っ張るとかマイナスに作用するものではないと思っています。
 しかし切り抜いたものを適切に整理していないがために、ここに反映できません。そこが私のだめな点です。
 今回の「復興区画整理」は私のホームグランドです。それを批判した論評については、多少身びいきの反論になるのはやむを得ません。
 しかしヘーゲルは「真理とはバッカスの陶酔祭であり」それに酔う「精神の個々の形態も」存続しないが「それらは否定的で消えていくものであると同じように、肯定的な必然的な契機でもある」といいます。ですから精神の高揚から生まれ出るものは、新たな前進を生み出します。
 という難しそうな言い回しをしましたが、要はこの社説の「稚拙さ」に物申すということです。
 震災復興事業によって「防災に強いまちに生まれ変わった」といい「こうした経験や教訓は、東日本大震災の被災地でも生きることだろう」ともいうが、「住民の負担は大きい」しかも「ほとんどの地区では行政主導で進められた。そのことで多くの課題を残したといえる」など耳障りの良いことを言う。
 私に言わせれば、これを書いた記者は阪神淡路の震災復興区画整理事業と再開発事業の現地を歩き制度の中身を研究してきたとはいえない。多少は研究している。「ほとんどの地区」といっているから「行政主導」ではない地区もあったことを知っている。ではそこと何が違うのかを研究していない。15年という年月があったわけだから、時間がなかった、といえない。
 個々までの記述で何が問題か。ここでの「経験や教訓」の中身が書かれていない。はっきり言えば、行政も住民も汗みどろになって取り組んできた中身を書いていない。公園やせせらぎや防火水槽はどうやって作られたかを調べたのか。「土地の一部を出」すことが住民の大きな負担か。住民の直接的な負担のない事業では、彼らは何を負担するのか。今回の福島の原発を見れば明らかだ。負担を隠すものほど恐ろしいものはない。区画整理のように明らかな負担を求めるものは、地域全体に及ぼす明確な利益と個人の補償をきちんとしている。それをなぜ見ないのか。
 しかも「事業の長期化につながった」とは15年の歳月を指しているのだろうが、50haを超える都市再開発事業は一般的にどの程度の年月を要するのか知っているのか。調べたか。戦災復興は最長60年を要し、密集市街地の都市計画道路の線的整備は30年を費やしている。
 15年という短さは、むしろまっしぐらに事業進捗したと思う。
 災害復旧の常で「これまでの経緯を踏まえ、住民主体のコミュニティー作りに取り組みことが大切だ。それこそ、災害に強い地域につながるのではないか」と軽く言っている。「まちは単なる器ではない。ふれあいがあってこそ輝くことを忘れてはならない。被災地の復興に取り組む国や自治体にそれを伝えていきたい」とは何という不遜な言い方だ。そんなことは自治体は知っている。百も承知だ。しかしそれができない現実である。
 マスコミは、津波が根こそぎ奪っていったまちの実態を知っているのも関わらず、そこからどう立ち上がるのかを、何も言わない。いえない。考えていない。実情から見えてくる問題点を指摘できない。
 今回の現地に行ったことのない私でさえも、阪神淡路と違うまちの復興が必要だと思う。であるならば、何を教訓として伝えるか、それをこの社説は明らかにしていない。現実の共通性を捕らえた教訓を明らかにしていない。課題だという「住民主体のコミュニティー」をどう作っていくのか。なぜ何も言わない。
 見出しを「教訓を東北に生かしたい」というのなら、阪神淡路の反省を踏まえて、マスコミとして言うべき教訓を明らかにするべきだ。