『草原に抱かれて』『あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。』『落下の解剖学』を書きます。『あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら』は、西神ニュータウン9条の会のHPと映画サークルの機関誌に書きました。映画サークル掲載分を載せます。
『草原に抱かれて』
市民映画劇場2月例会でした。現代の中国、内モンゴル自治区、モンゴル族の母と息子の話です。
息子アルスはミュージシャンとして成功しています。母は、兄夫婦と暮らしていて認知症になっていました。
兄たちは大都市の団地に住んでいて、見舞いに行くと、母は鉄格子のはまった部屋に押し込められています。故郷を恋しがり勝手に出歩く母で、夜中でも騒ぎますから、兄たちが悪いわけではありません。
母を憐れむアルスは、廃墟となっていた草原の実家に、母を連れ帰り一緒に暮らし始めます。しかし母の徘徊はひどくなります。そして母が恋しがる「原風景」を求めて、二人は当てのない旅にでました。
そこで羊たちと暮らす遊牧民たちと出会い、二人は彼らの幻想的な「夜会」の祭りに入っていきました。都会での生活と対比するように描かれます。
原題は「へその緒」です。徘徊する母をロープでつなぎとめている様を表しているようです。
内モンゴルの素晴らしい草原、自然に抱かれる生活に恋焦がれる思いも伝わってきました。
しかしこの映画は、全然別の視点から見ることもできます。中国には検閲があり、政府や中国共産党を批判する映画は出来ません。
中国は圧倒的多数の漢民族(92%)とその他の55民族が暮らす多民族国家です。そして習近平政権の下で、少数民族政策が変わり、独自の文化や言語を認めない方向になっています。
遊牧民だったモンゴル人たちが都会に押し込めれれている、と見えます。それは時代の流れで仕方がないとあきらめている映画ではありません。
わずかに、唐突に彼らを監視するドローンを出したことで、私はこの映画が現代中国に強い批判をしていると感じました。
『あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。』
ちょっと長い映画評です。
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もう一歩、考えてほしい
決して戦争や特攻を美化している映画ではありませんが、戦争批判映画としては物足りないし、戦前の日本社会を描く映画としては粗雑です。
原作も含めて、特に若い年齢層に受け入れらていると聞きます。「泣いた」という感想がありました。
その世代にあわせて上手に作っている映画ですが「戦争を知らない子供たち」を愛唱歌としている私は泣けません。彼らの感性からもう一歩踏み込んでほしいというのが感想です。
物語は、現代に生きる女子高生の百合(福原遥)がアジア太平洋戦争の敗戦直前の日本に3週間ほどタイムスリップする話です。
彼女は、死を覚悟して特攻隊に志願し訓練を受けている若者たちと触れ合い、その一人、佐久間彰(水上恒司)に淡い恋心を抱きます。
そして彼らは戦場へ飛び立ち、彼女は現代に帰ってきました。
百合は母子家庭で、現在の暮らしに不満を持ち、母に反発していました。未来に対しても希望を持っていません。それが理不尽な特攻、戦時下の生活、悲惨な空襲などを体験し、現代に帰ってきて、平和な世や母のありがたさがわかります。そして教師になりたいという目標も持ちました。
物足りない戦時下
高畑勲監督は自作『火垂るの墓』や『この世界の片隅に』を評して「戦争を防ぐことはできない」映画と言います。「庶民が悲惨な目にあった」と描くだけでは、戦争に反対する力にならず「国民がそうならないために強力な軍隊が必要」の論を打ち破れない、と指摘しました。
この映画も侵略する日本軍は出てきません。
特攻兵士がもう一人の主人公です。『永遠の0』のような欺瞞はありませんが、大日本帝国陸軍の本質は描きません。
仲間は和気あいあいであり、他人に自分の弱みを見せたりしています。不当不合理な暴力はありません。人間性を歪められた若者は出てきません。
これまでの多くの戦争映画が描きましたが、日本軍は兵士を一銭五厘で集められる消耗品扱いをし、上官の命令は絶対服従です。この映画のように脱走などすれば、同僚に対しても、家族にも厳しい連帯責任が負わされます。そうとは描いていません。
戦時下を思わせるシーンはわずかです。「日本は負ける」という彼女の言葉を聞きとがめる警官が出てくるだけです。その警官も佐久間彰が「俺は特攻兵だ」と強く出ると引っ込むという弱さです。
戦争に反対、戦時体制に反対、天皇制に反対、自由や人権などを口にするものを徹底的に弾圧する官憲や「おかしな若い女がいる」と密告する様な、いやらしい隣組など出てきません。
政府の弾圧だけでなく、国民自身も協力した戦時下の社会の重苦しさがあまり伝わってこないのです。
彼女がタイムスリップした町を描くだけですから、アジア太平洋戦争が日本の侵略戦争ということもわかりません。庶民の被害だけで、加害は触れない映画になっています。
百合に気付いてほしいこと
私がもう少し突っ込んでほしい思ったのは、彼女の変化です。
タイムスリップという手法を使うのだから、過去の現実と出会って、現代の女子高生の意識がどう変わるのか、そこに作者の意図があります。しかしこの映画は凡庸でした。
平和のありがたさ、親のありがたさを身に染みて感じたという程度です。
わずかでも実際の戦争を体験した彼女には、現代に戻って、自分と同世代の若者を死地に追いやる戦争が、どんな戦争だったのかを調べてほしいと思いました。
戦後の日本が戦争に関わらなかった大きな要因である平和憲法の存在に気付いてほしい、現在の世界にはまだまだ続いている戦争等に関心を持ってほしいのです。
愛する人を奪われる悲しみや、思ったことが言えない不合理を感じて「現代は平和でよかった」で留まるのではなく、彼女が平和である日本の矛盾に気づく映画をつくってほしかったです。
現在の日本は軍事大国化への舵を切っています。安部前首相は戦前回帰が露骨でしたが、まだそこまでは行っていないと、私は思います。それでも百合が現実を見る目をもう少し描いてほしいと思います。
『落下の解剖学』
人里離れた山荘の家から落ちて死んだ夫は自殺か事故か、あるいは妻の殺人か。それを問う裁判劇となっていますが、その事実は不明でした。
その時に、家には夫婦と幼い視覚障害を持つ息子だけしかいませんでした。他からの関与はありません。
妻が夫殺しで起訴されます。二人の関係と息子の存在が、証人の色々なやり取りがあって明らかになり、さらに夫婦喧嘩の録音があったことによって、表面的にはわからない家族の関係があからさまになりました。
それはとても面白い人物描写になっています。
しかし物証で事件を明らかにすることが出来ない、いわば状況証拠だけでの裁判です。その点が映画の面白さかもしれませんが、私はあまり評価しません。