2012都市計画支部正月号

労働組合の機関紙に、こんな文章を書きました。
たとえ屋根に上がってでも
 都市計画支部の皆さん、新年明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。
SFの「限界」
 十代の後半に読んだ本の影響は、残っています。私は星新一さんや小松左京さんを手始めに、国内外のSFにはまり込んでいました。今、SFが他のジャンルの小説と比べて何が特徴であるかと問われれば「人間とか人類を外から見る視点」だと思います。極端に言えば、あの頃はそんな本ばかりを読んでいました。
小松左京さんが昨年、物故されて、改めてあの時代から遠いところに来てしまったな、という感慨を持ちました。そしてあの「青い」気持ちを思い出しました。
 日本のSFが、大きく世間の注目を集めたのは彼の「日本沈没」(一九七三年)でしょう。日本が海底に沈む「可能性」の科学的根拠を積み上げて見せた、その博識と想像力はすごいものだと思いました。「プレート」などという言葉をはじめて知りました。
しかし、その時代にも関東大震災の再来が言われていましたが、日本国民に対して「沈没」まで行かずとも巨大地震津波の襲来に対する警告にならなかったのはなぜでしょう。
 SF(「空想科学小説」と翻訳をされた時期もありますが、けっして「催眠商法」と混同しないで)は現実と異なった世界、「常識」をひっくり返す論理を描く文学で、そこには限りなく飛翔する想像力と現実を批判する精神がありました。
 しかしベストセラーになっても、社会に警鐘を鳴らすことにはなりませんでした。それは現実の分厚い力に負けているのでしょうか。
自然現象を想定外に追いやった者たち
 阪神淡路大震災の時も高速道路を横倒しにする自然の力を見せ付けられました。東日本大震災の巨大津波は、あらゆる物を「根こそぎ」奪い取りました。九ヶ月経った後、彼の地に立ってもその恐ろしさは感じます。水の威力は凄まじいものがあります。
そして放射能汚染。この見えない怖さは、これまた想像を絶します。避難区域外で日常生活を営んでいる人々に「直ちに健康被害はない」といいます。しかし低レベル被爆であっても、それが昼も夜も長期に続く怖さは、言い知れないものがあります。郡山市の人は、自分たちがどんな環境でどんなものを食べているのか、計測器で測る必要性を言いました。
 私たちは、そういう事態をさして「想定外」といいます。しかし、政府と東京電力の中枢にある役職者や原発地震の専門家といった、責任ある立場の人達が[三.一一]を目の当たりにして「想定外」というのは違います。
彼らは「想定外」を想定するのが仕事であって、簡単に「想定外」というのは、あまりに無責任で、被災者だけではなく、国民全体から厳しく責任が問われています。しかも[三.一一]と同程度の地震津波が生じる可能性は、過去の事例も引き合いに出されて再三再四指摘されてきました。「原子力安全神話」を作ったヘキサゴン「政、財、官、学、報、司」は、それを封じ込めたのです。
今日の事態は、自然の力の大きさに対する畏怖だけではなく、この自然現象を想像せず「想定外」に追いやった政治と社会を告発しています。
 原子力発電所を強力に進めたのはアメリカの政策であったことが、[三.一一]後に明らかになっています。日本側ではCIAのエージェントであった元読売新聞社主・正力松太郎や元総理大臣の中曽根康弘等が、これを政治と産業の中心に持ってきました。その後継者たちは、反省することなく、すぐさま「やらせメール」などで「反原発」世論に反撃しています。東京電力は、今でも原発事故を人災であると認めていません。
 「想定外」はそういった人々によって作られました。しかし少なくない科学者や住民運動が「想定外」の危険を指摘し、多くの国民はそれを知る立場にいたことも忘れてはなりません。
自然のサイクルと共生する
 地球上の生命現象や日常生活は、安定した原子の化学反応と細胞の増殖・分化・死滅によって成り立っています。少し前まで、人間は自然のサイクルの中で生きてきました。疫病の流行や飢饉、自然災害もありましたが、それを受け入れて共生してきたと思います。
現代社会は、科学技術が資本主義体制と結びついて、生産力を飛躍的に増大させ大量生産、大量消費、大量廃棄の社会システムを作り上げました。それは自然のサイクルに納まりきれず、地球環境を破壊しています。
今、科学技術の発達は、原子核から膨大なエネルギーを得ることと、細胞核に手を突っ込んで生命を支配するところまで来ています。それらは地球上の自然現象ではありません。安全安心で便利な生活、健康で長寿を生きることを求める、私たちのささやかな「願い」は、行き過ぎてはいないでしょうか。七〇億人を超える人類の活動は、もう地球には負担となっています。その「願い」は自然のサイクルの枠内で納めるべきです。
人間らしい生活に必要なものはなにか、[三.一一]はもう一度考え直すことを迫っています。
核の安定を破る危険性と遺伝子操作の危険性は別のものですが、地球、生命、人類を死地に追いやる危険性を持っています。それらは自然の制約を超えたものです。安易に触れることは、とてつもないしっぺ返しを受けると「想定」されています。
想像力の高度
 広島、長崎、第五福竜丸に続く福島という、核の大きな被害を受けた日本人は、世界に率先して、核兵器原発を廃止する道を歩むべきです。非核三原則を世界に広げ、核エネルギーから自然再生エネルギーへの転換が急がれます。
日本列島は地震の巣の上にあります。沈没はなくとも巨大地震、大津波の危険性はいつ何時、どこにあっても、それは「想定外」ではありません。再び原発事故を招くことは事故では済まされません。それを許すことは、現在と未来に対する殺人罪です。
それでは、現在の電源の割合はどうか。火力六六%(石炭二七、天然ガス二六、石油一三)、原子力二四%、水力七%、その他が三%になっています。核と化石で九〇%、道のりは長そうです。しかし小規模水力、地熱、風力、太陽光、太陽熱、波浪、潮力、海洋温度差、バイオマスといった自然再生エネルギーは、日本では身近にたくさんあります。それに転換するのは、その気になれば案外容易です。
転換の時期です。このとき最も大切なのは想像力です。放射能に故郷を奪われた人々の行く末。いくつかの巨大地震が襲う日本列島。砂から突き出たポートタワーの頭。そういった光景が見えますか。
消費税増税によってますますシャッター街になる弱小の商店街、金持ちは不老不死を手に入れ、貧乏人は医者にもかかれない医療制度。田畑が荒れはて人影のない中山間部の村。あふれる失業者の群れ。街づくりも何もない分断、孤立させられる人々。そういう社会はどうなっていくのか。そうではない未来も見えます。
何を見るのか。どこまで見るのか。見えないものを見るためには想像力の高度が必要です。若い頃SFがその手がかりでした。今でも空間的にも時間的にも遠くを見たいと思います。そのために少しでも高いところに上がりたいのです。それが例え屋根の上であっても、そう思います。