こんな原稿を書きました

 神戸演劇鑑賞会の8月例会「樫の木坂の四姉妹」の運営サークル会報係りに参加しています。それで事前に台本を読みDVDをみて、芝居についての原稿を書きました。
 23日が原稿の最終の打ち合わせでした。会報に「3・11後にこの芝居を見る」というタイトルで載せていただきます。それは約千字です。
 その前に、芝居について、何を伝えたいのかと考えたことを自由に書いて見ました。すると三千字になりました。いつも映画サークルで描いている字数です。これは会報係りの人たちに見てもらいました。しかし紙面の都合もあるから削らなくてはなりません。それで、どうしてもいいたいことだけを1千字にまとめたのです。ちょっとつながりが悪いところもあります。
 それで、元の原稿をここに載せます。千字のほうは鑑賞会の会報を見てください。
「3・11後にこの芝居を見る」&「戦争がもたらしたもの」
2000年
 長崎の原爆被害者を描いたこの芝居は大変重いテーマを扱っています。しかも芝居における現在を、戦後55年を経た2000年に置いた、ということに深い意味も込められているように思います。さらに、私たちは2011年3月の東日本大震災福島原発事故を経験してこの芝居を鑑賞します。
そういうことを踏まえて、私たちは、この芝居から何を見るのか、を考えました。
 まず2000年という年は、20世紀の最後の年という意味が大きいように思います。20世紀は、いろいろな意味で人類史を変える特に大きな変化を持った世紀です。それは飛躍的な産業社会の発展、人口の急増、そして2度にわたる世界大戦です。その一方で基本的人権や民主主義が人類普遍の価値となり、戦争を防止し平和を願う力も国際連合日本国憲法9条を先頭に築かれています。
2000年という時期は、日本ではバブル崩壊後の「失われた10年」という長期の不況となっていました。そして1998年に国歌国旗法99年周辺事態法が作られています。
勤労国民の生活は厳しくなる一方で、米国に従って戦争できる戦時法制が着々と整えられ、9条改憲の声も大きくなっていました(その危機感から2004年「九条の会」が作られた)。私たち神戸の人間は95年の阪神淡路大震災からの復興で苦しんでいました。
国際的には1990年代はベルリンの壁が壊され東西冷戦構造が崩壊して米国の一国超大国による新自由主義が吹き荒れ、諸国民の生活を破壊しています。
21世紀へ持ち越したもの
 20世紀の大きな課題の多くを持ち越し21世紀の幕は開きました。その課題の一つが核兵器の廃止です。この芝居で表現された、現在までも続くヒロシマナガサキの悲劇、被爆者のみなさんの苦しみと願いに、地球人類は応えていません。「過ちは繰り返しません」という言葉がむなしく響きます。
核兵器は、軍事大国が競って製造し、現在では9カ国2万発以上が保有されています。それは地球を破壊し、すべての生物を絶滅させるものであるのにかかわらず「核抑止力」という幻想が支配しています。それにしがみつく為政者は日本にもいます。
しかし世界的な核兵器廃絶の運動と核兵器拡散の危機によって、世界最大の核保有国米国大統領が初めて核のない世界をめざすことを宣言(2009年)しました。この方向をさらに推し進めていくことが、21世紀の喫緊の課題となっています。
核兵器だけではありません。20世紀21世紀の戦争は、兵士だけではなく一般市民も巻き込み、地球環境に対し甚大な傷跡を残しています。大量で残虐な殺戮(無差別爆撃、民族殲滅、子ども兵士など)を行い、時空間的に壊滅的な破壊を行う兵器(枯葉剤、地雷、劣化ウラン弾等)を開発してきました。
それらの廃止、特に紛争地域への武器輸出の即時停止など、それらで金儲けすることを禁止しなければなりません。
そして現在の地点で
 私たちは、自然災害や戦争の規模や悲惨さを、その犠牲者の数や被害の大きさで計ろうとします。あるいは、それが大きくなればなるほど、大きな歴史的な事件、歴史の一コマと見てしまいがちです。
しかし、この芝居は原爆による死傷者や被爆者の一人ひとりの苦しみを描きました。一人ひとりの人生を慮って、一人ひとりの思いや言葉に寄り添うこと、そこに生き生きとした人生と彼らの無念さを見ることを求めています。
 それが「虫の目」であるのなら、一方で「鳥の目」で歴史的な流れを見ることも忘れてはなりません。「鳥の目」は、歴史を運命とするものではなく、それがなにか大きなものに作られるものではない、と言う視点を持ち、過去と現在の対話を求めるものです。
 1945年8月6日広島、9日長崎そして15日敗戦と続きますが、もし日本が一月早く敗戦の決断をしていたら、原爆の悲劇は無く、半年早ければ東京大空襲も、今日まで続く沖縄の悲劇も無かったかもしれません。人々の日常生活が有るのと同様に「国体護持」を叫び、戦争を継続した人々がいた、ということです。
 あるいは日本の被害だけではなく、台湾、朝鮮半島の植民地化、中国大陸侵略といったアジアの征服をめざした加害者・近代日本も考える必要があります。
 大きな樫の木がその永い樹齢の中で傍らに住む人々を見つめるように、多くの芝居や映画、小説が、一人ひとりの具体的な人生の描写を通じて、現在の地点にたって、過去から未来への流れを見つめています。この芝居も一人ひとりの人生と時代の流れを描きました。
3・11を目の当たりにして
 この芝居を2011年3月11日以後に見る意味を「虫の目」「鳥の目」で考えて見ました。
 地震津波の大きな被害を受けた関東、東北の太平洋沿岸地域、それに加えて福島は原発事故による放射能汚染を受けました。極めて大規模で深刻な被害であり、近現代の文明あり方や人間社会の歩む方向を根底から見直すことを迫るものです。
同時に、そこには一人ひとりの平穏な日々と明日への希望があったこと、思い出の詰まった営みがあったことを、忘れてはならないことを、強く感じさせます。根こそぎ押し流された街、すべての人々が避難した村、放射能が降り積む田畑の映像を見るとき、私たちは、そこで一人ひとりが生きてきたことを忘れてはならないと思います。
人間は、自然の強大な力に対して営々と立ち向かい命と暮らしを支えてきました。20世紀は科学技術と産業社会の驚異的な発達で、それをコントロールできるかのような錯覚を持ちました。3.11は、その思い上がりに対する大きく手痛い警告であると思います。
地震津波は自然災害ですが、原発事故は戦争や原水爆と同様に人災です。自然の力に対しては、その巨大さを謙虚に認め、再度それに対応する準備を見直し検討する必要があります。人災に対しては徹底した経緯と原因の究明が必要です。その根源となった原発の存在、エネルギー政策の見直しはもちろんですが、それを求める大量エネルギー消費社会自身を見直し、私たちの生活スタイルも変えるべき時期に来ています。
 また2008年「リーマン・ショック」は、市場原理と効率を追い求めた新自由主義グローバリズムの行き着いた金融システムの破綻です。100年に一度の大恐慌と言われましたが、その後遺症は、EU諸国の財政破綻として表出しています。日本、米国、EU諸国といった先進資本主義国が共通して、巨額の財政赤字を抱え、国民生活の切り下げと格差拡大に悩み、その一方で多国籍大企業が莫大な利益を上げています。
 それらがほぼ同時期に発生したことを偶然と捉えるのではなく、20世紀の過ちを気付きただすことが求められているように思います。
多くの「4姉妹の幸せな思い出の日々」を誰が奪ったのかを、考えなければならないように思います。