大事なことは譲れない

 思想信条の自由、言論の自由はやはり大事だと思う。それはいつでもどこでも、誰でもが何を言っても良いということとは違うが、意見を表明する場においては、それは万人に保障されるべきだと思う。その自由が制約される、ということがあれば、なぜそうなっているのか、その原因は何かを探ることも重要だと思う。
社説の意見
 何のことを言っているのかといえば、7月18日の[神戸](おそらく全ての新聞が同じだろうが)で「将来のエネルギー政策をめぐる意見聴取会」で電力会社や関連会社の意見を認めない、パブッリクコメントへの投稿の自粛という「改善策」を政府が決めたという、報道だ。電力会社幹部が、原発の必要性を意見聴取会でいったから、それに対する批判にこたえた形だ。
 同じ日の社説「疑念招く運営を改めねば」も、聴取会での発言が「原発比率0%、15%、20〜25%の3案ごとに各3人」という不公平な運営を批判していた。発言を希望した人の7割が0%だから、その割合は原発を容認する政府案に沿うものになっているから、その批判は当然といえば当然だ。
 だから社説の意見は、正しいと思うけれども、それだけでは私は納得いかない。電力会社の社員であろうがなかろうか、国民として意見を表明する権利を奪われるのはおかしい。電力会社の社員だから、みんな原発賛成というのもおかしい。
 そんなことを誰も思わないのだろうか。しかしそれについては、実際に電力会社の社員は、労働組合の幹部も含めて、原発賛成だ。しかも彼らは自分の意見を言うのではなく、会社の意見を代弁する。
大事なことを問わないのか 
 社説は、冒頭で言ったように、国民の普遍的な言論の自由、思想の自由についてどう考えているのだろうかと思う。意見を言う人を政府の意向に沿うように恣意的に決めることは駄目、というのは正論だが、ある特定の企業に所属する人々には、それを認めない、それが大事であるといっていいのか。
 ここで思い起こすのが、公務員には憲法で定められた基本的な人権を制約して良いという意見だ。橋下大阪市長はその一番手だが、7月14日[毎日夕]に、大阪市従が家庭ごみ収集の民営化反対のビラを配布したことに懲戒処分をちらつかせて批判している、という記事が載った。彼は公務員の政治活動も禁止させようとしているが、市長の政策を職員、労働組合が批判することは「民間意識からかけ離れている」といい力づくで抑えようとしている。民間企業では会社の方針に従業員が批判してはならないのは当たり前だ、という思想を吐露している。
 こういうことには、さすがに新聞は批判的だが、企業と従業員は別であり、従業員の思想信条の自由、言論の自由は保障されるべきだとまでは言わない。
 なぜだろう。これは大事な問題ではないのか。
日本人は社畜
 関西電力では思想差別があり、それを訴えた職員が勝訴した。簡単に言えば共産党員を「村八分」にした関電が負けた。それを新聞はどのように評価したのか。問題はそこに返っていく。同じような裁判が続いてあった。神戸製鋼でもそうだった。
 「工場の門前で憲法は立ちすくむ」という言い方もあったし、佐高信社畜という言葉をつかった。
 現場から告発する力を奪うために、電力会社は労使が協力しているのは明らかだと思う。従来から労災の裁判で、連合の組合役員は会社側の証言をしてきた。その最右翼である電力労連はそうしてきただろう。そこにメスをいれずに、出てきた事件だけを報道するマスメディアは「マスゴミ」と言われても仕方がない。
 しかし労働者は社畜ばかりではない。今回、福島原発で鉛のカバーをして作業を命じられた労働者が内部告発している。新聞は、それを報道した。もし3・11以前から、そのような報道があったのなら「安全神話」は少しは是正されていたと思う。
 職場での言論の自由、思想の自由は個人の問題ではなく、やはり人類全てに関わる問題だ。芸術や文化に関わるものは、それに過敏でなければならないと思う。
恥知らずの言葉
 そういう前提で、そんな発言があったのかを拾うと、新聞は的確な批判をしている。電力会社幹部は「今回の事故で死んだ人はいないと」言い切っている。それに対して7月23日[毎日]で柳田邦男さんは①被害の現場において問題を直視しようとする発想がない、②乾いた「三人称の視点」でしか事故を見ていない、③原発とは・・地域の人々の命や生活の安全を不可欠の条件とする・・意識が・・希薄、と分析した。
 まさにそのとおりだと思う。この幹部の意見を応援する[産経]はいまだに原発は割安だといい、幹部の意見は視野が広いという。もはや理屈も何もないが、これでも新聞として読んでいる人がいるのは、馬鹿としか言いようがない。