東北の奥へ

自治体学校が終わった後、そのまま被災地の奥へと旅に出ました。特に何をするということではないですが、被災地を見ると言うことでしょうか。これも2012年から3年続いています。
28日の午後から、新幹線で盛岡に行き、そこで山田線に乗り換えて宮古で泊まりました。29日は開通した北リアス線に乗り、久慈へ行き、そこで3時間ほどぶらぶらとしてから、また宮古に戻ってレンタカーを借りて、そのまま下って、大槌町に泊まりました。30日は釜石、大船渡、陸前高田気仙沼と走って一関で東北線の鈍行列車で仙台、仙台空港神戸空港へと帰ってきました。
かなり強行軍でしたが、自治体学校で聞いた話と合わせて、被災地の状況が少し理解できました。
盛岡は初めてです。3時間ほど時間を作って、盛岡城址へ行ってみました。歩いて15分ほどのところです。



石垣だけが残っていましたが、繁華街のすぐ隣で、非常に雰囲気が良い空間でした。隣に歴史資料館があったのはいってみました。ここは南部藩です。
そして山田線に乗って宮古へ、約2時間の列車の旅です。山の中、谷あいをを行きますから景色がいいということもありません。鈍行列車に揺られていきました。
宮古についたのは7時で、夏とはいえ、さすがに暗くなってきています。宮古ホテル沢田屋に泊まりました。
29日翌朝、ちょっと早く起きて、1時間ほど港までランニングして来ました。そうすると港は周辺は、津波の大きな被害があったようで、道路や工場などの工事の真っ最中でした。
北リアス線宮古駅から久慈に向かいました。


久慈がNHK「アマちゃん」の舞台になったことから、北リアス線は1両の電車でしたが観光客で一杯でした。
久慈は小チンマリとした静かな街でした。「アマちゃん」の北三陸町の模型がありました。


久慈に昼を挟んで3時間ぐらいいて、宮古に戻ってレンタカーを借りました。そして、その日の宿泊地である大槌町へと向かいました。
途中に宮古市田老、金浜の被災地を見ました。


ここまでの市街地はあまり被災していなくて、復旧復興もだんだん進んでいるのかな、と思っていました。そうではなくて、小さな被害の箇所(例えば宮古市の市街地も1mほどの浸水があったようですが建物が流されると言うことではなかったようです)は、災害の傷はふさがれたように見えます。しかし大きな被害があったところは、まだ手付かずでした。防波堤も復旧していません。
田老も金浜も以前は建物が立ち並んでいた地域です。
さらに下って山田町に入りました。

ここも山田町役場に近い市街地でした。今は工場、倉庫が少し建ち始めていますが、住宅はありません。もう少し南にいくと道路沿いに仮設店舗が建っていました。

この辺りが一番の中心地であったようです。
そしてこの日の宿泊場所、大槌町、小川旅館に入りました。

元々は街中にあって、全て津波に押し流されて、被害の少なかったバイパス道路の山側に再建されたものです。
ここはとっても良かった。もし大槌に行くことがあれば小川旅館に泊まると良いです。何が良いかといえば夕食の豪華さです。写真に撮ってくればよかったのですが、とにかく安くて豪華、うまい、と三拍子そろっていました。
30日は大槌、釜石、大船渡、陸前高田気仙沼と回って一関までレンタカーで行きました。これらの町は津波の大きな被害を受けています。どの程度復興しているか、関心を持ってみました。
大槌町は神戸からOB職員が応援に来ています。町役場によって話を聞いてきました。30数名いる大きな課でしたが、大槌町の職員は4人で後は全国、北海道から沖縄までの応援の職員です。復興事業魔肌まだこれからのようです。
これが被害を受けた旧庁舎と新庁舎(元小学校)です。


そして町の復興計画と現状です。町の中心だったところはまだ何も建っていません。メインの道路を切り替えながら、大きな街区を作るためにダンプと重機が動き回っていました。


そして大槌町にはこれだけの仮設住宅が分散しています。

きっと職員が巡回していると思います。神戸の経験で言うと、分散すればするほど住民も職員も大変です。でもまとまって仮設住宅を建てることが出来る土地がなかったのでしょう。
それから大船渡、陸前高田気仙沼と回りましたが、どこもまだ市街地の復興には至っていません。ようやく工事が始まったと言う状況です。



2枚目の陸前高田の写真に写っているのは、地盤を上げるために土砂を運ぶベルとコンベアです。

(続く)