[毎日]「風知草」を読む

「風知草」は立憲主義を軽視して、集団的自衛権の容認、普通に戦争が出来る国への道を掃き清めようとしている、という評価は変えるつもりはないが、「これはどう読むのか」と考えさせられるコラムではある。
資本主義批判
8月25日は「告発した人 問うた人」で、関電の政官に対する原発推進工作を実行した関電元副社長の証言を報道する[朝日]の連載を「証言は民心をとらえ、脱原発の底流を太めるだろう」と評価した。
そして28年前、朝日ジャーナルで元副社長を告発した奥田宏の論を引き合いにして資本主義を批判した。
20世紀後半「経営者支配が強まる一方、労働組合は衰退。利益至上主義で制御不能の無責任巨大組織が資本主義の中心に躍り出た」ことによって、現代では米国のGMにも、東京電力にも税金を投入した。巨大企業を擁護する資本主義、それは果てしない現状維持だと批判した。
ではそのような巨大化する企業に対して[毎日]を含めたジャーナリズムは、どのように批判したのか。私はあまり批判したように思わない。闘う労働組合や告発するした人を支援せず、むしろ広告主である大企業の無法を「黙認」したように思う。
奥村宏の論を紹介するだけではなく、ジャーナリズムの対応を書くべきだろう。
ずれている論旨
9月1日は「注目『慰安婦』本の受難」で、韓国で販売差止め訴訟をうけ、そのため日本での出版が延期された「帝国の慰安婦/植民地支配と記憶の闘い」と言う本を紹介した。
現在、[朝日]が自社の慰安婦報道で「誤報があった」と言う検証記事を書き、靖国史観ジャーナリズムや反動的政治家が[朝日]叩きに狂奔している。そして慰安婦問題そのものをなかったもののように隠そうとしている。
その時に、この書き方はおかしい。
まずそれはどのような本か。「彼女たちが解放後も帰って来られなかったのは、日本だけではなく、我々自身のせいである」「(元慰安婦の支援団体などは)『日本政府の責任逃れ』をとがめるが、じつは、民間主導の補償に費やされた52億円の90%近くは国費だった」と言うことが書かれている。
これに対して「対日糾弾一色の韓国世論の批判を恐れず、局面打開を探る勇気に心動かされる」「(著者の)朴裕河は、韓国側から冷静沈着に問題を腑分けしてみせる」と評価する。
著者は罵声を浴びせかけられ、勤務先の大学には解職を求めるデモ隊が押し寄せている、という。
いい本だろうと思うし、こういう韓国世論の「熱狂」にも同感できない。しかし日本のジャーナリズムは、韓国の状況を批判的に言うだけでいいのだろうか。
[朝日]の検証記事が「本質的な誤りではない」と言うのに対して「本質的な誤り」と批判だけで、日本のジャーナリズムの現状には「朝日批判にせよ、朝日擁護にせよ、いささかイデオロギー過剰のすれ違いが目立つ」と言う程度でいいのだろうか。
[朝日]の批判するのと同じくらい、戦争犯罪をなかったものにしようとする「歴史修正主義」ジャーナリズムと政治家たちに対して、批判するべきではないか。世論を誤った方向に誘導する動きを警鐘するべきではないか。それが見られない。
「帝国の慰安婦」の版元は朝日新聞出版だそうだ。