『アイ・イン・ザ・スカイ』

西神中央9条の会のHPに短い紹介を書きましたが、今回は、長い批評を映画サークルの機関紙に書きました。それをここにも載せておきます。
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『アイ・イン・ザ・スカイ―世界一安全な戦場―』
なぜ戦争が続くのか 
現在の戦争
 突然、米国はシリア政府軍の空軍基地に五九発のミサイルを撃ち込みました。政府軍の地域住民に対する毒ガス使用の「対抗措置」だそうです。
 毒ガスで小さな子供たちが苦しむ悲惨な映像がありました。ですがミサイルを撃ち込んで彼らが救われ、事態が改善されるとは思いません。
米国の他国に対する一方的な戦争行為は、何も解決しません。これまでのアフガン戦争やイラク戦争でも、泥沼の混乱に陥っています。テロ組織IS(イスラム国)は、それによって生まれたといっても過言ではありません。
 昔の日本は中国大陸への侵略戦争を「事変」という言葉で戦争を拡大し、現在の国際社会では「人道的介入」という耳触りのいい言葉で戦争が広がっています。
 近年、国家が対立する戦争ではない戦争が溢れています。しかし戦争は「他をもってする政策の継続にすぎない」(クラウゼヴィッツ戦争論」)というテーゼは生きています。だから現在の戦火にまみれた地球は、国際政治の貧困、国際連合の無力であり、地球規模の政治や経済などに大きな影響を持つG七やG二〇の政府首脳の無能、それを選んだ民主国家の国民に責任がある、と考えます。
『アイ・イン・ザ・スカイ』は平和なナイロビの市街地に、突然ミサイルが撃ち込まれる、という映画です。
 日本語の題名には原題『Eye in the Sky』に「世界一安全な戦場」が副題として添えられています。「空にある目」を使って攻撃を加える英米軍の側が「安全」という意味です。これは二重の意味で皮肉です。
 一つは、ミサイルを撃ち込む側は反撃を受けないという「安全」ですが、実行する兵士にはトラウマが残り、命令した政府は「テロ対策」という免罪符を持っています。もう一つは、英国米国が「神の如き支配する」という愚かな錯覚です。
テロ対策

 軍隊と政府が協力して、テロリストを捜索しています。英国のテロ対策本部が長期にわたる諜報活動により、指名手配している英国人や米国人のテロリストたちが「ナイロビに来る」という情報を得ます。当初は彼らの逮捕をめざしていました。
 英米軍は、地球の裏側、それぞれロンドンとラスベガスにいます。軍事衛星とドローン、顔認証システムなど最新のICT機器を使い、さらにケニア人の諜報部員たちから詳細な情報を得て、英国の軍人と政府高官が協議しながら対策を立てていきます。
空港から市街地のアジトまで、超高空から軍事衛星で追跡、監視します。そして小鳥や虫に似せた超小型ドローンにカメラを載せてアジト屋内まで視認します。さらに顔認識システムによってテロリストを特定しました。
その時、彼らが自爆テロの準備をしていることを確認して「逮捕の余裕がない」から、ミサイルを撃ち込む方針に変えます。他国にミサイルを撃ち込むのですから、かなり高度な政治的判断が必要です。それを英米の両国政府首脳に確認します。
その了解が取れそうな時に、アジトの塀の外に一人の少女がやってきて、パンを売り始めました。ミサイルを撃ち込めば彼女を巻き添えにしますが「テロリストを見逃せばいずれ数十人もの被害が出る」ことから軍人も政府高官も深刻に悩み、上司である政府首脳に判断を預けます。
そして彼らは決断し、米軍の戦闘機ドローンからミサイルが発射されました。
この一連の流れを臨場感にあふれる映像で見せます。観客も緊張しっぱなしです。
テロとの戦争を強調し、テロリストを見逃せば大きな被害がある、「彼らは根絶するべき絶対的な悪」として描かれます。「一人の少女の命も大事だけれども」と二者択一を観客にも迫ります。
いったんテロリストと確認されたものは、裁判などの手続きを踏むことなく政治的な判断で処刑することができるのか、その疑問には、オサマ・ビンラディンの殺害が答えを示しています。二〇一一年五月、彼はパキスタンで米軍特殊部隊によって殺されます。
オバマ大統領は自画自賛し、国際世論も「極悪人」の処刑に「歓迎」の意向を示しました。パキスタン政府の「主権侵害」の抗議は無視されました。
果たしてそれでいいのか、と思います。
描かれたもの
 最新兵器やICT機器の能力は空想ではなく、ほぼ現実のレベルでしょう。軍事衛星は針の落ちるのさえ見分けると言いますし、鳥形、虫型の超小型ドローンも開発されています。顔認証システムは刑事ドラマで活躍しています。
 そういう兵器や機器を活用して、軍人と政府官僚、政治家たちが、大所高所からの判断を下す状況が描かれます。戦争は会議室で起きています。
 実際に兵器を操縦する兵士(彼らは奨学金返済のために軍隊を志願した)や技術者たちがいます。現地で協力するケニア人がいて、何も知らずに日常生活を営むナイロビの市民たちがいます。
 平和な日常の裏にテロの恐怖が潜んでいる、と描き、かなり明瞭にテロと戦いが強調されます。
またテロ対策の軍人を女性(ヘレン・ミレン)とし、彼女を自分の任務を果たしたくて仕方がない人物に設定します。戦闘機ドローンの操縦士も女性になっています。軍隊ではジェンダーの壁はないことを表しているのでしょうか。
 映画の筋立ても、映像もわかりやすい、主要な人物の性格付けもきちんとされています。でも見た後に何かもやもやとした、嫌な感じが残ります。緊張感のある映像と単純なストーリー展開の一方で、描かれなかったものがあることに気づきます。
テロ戦争からの転換

 これを見て、バカな元防衛大臣は「法秩序と人間の尊厳の間にある葛藤」を見事にあらわした、と言ったそうです。
彼は、映画が見せたテロリスト殺害の使命=法秩序(放置すれば大勢が殺される)と一人の少女の命を考える「葛藤」だけを見たのです。そこにあるはずのケニアと英国、米国の関係、ケニアの歴史、文化、風土、なによりも人々の暮らしぶりに思いも至らず、そしてなぜテロ組織が生まれるのか、アフリカの独立国ケニアの首都ナイロビになぜテロ集団のアジトがあるのかという疑問も生じないのです。
人間の尊厳にはそれらが含まれます。
 例会で『おじいさんと草原の小学校』という英国のケニア植民地支配の残酷さを描いた映画がありました。今ケニアの人々の宗主国英国を見る感情はどうなのか、英米軍がミサイルを撃ち込むことに、どのような反応をするのか、現在の世界を吹き荒れるテロの嵐と、残酷な植民地支配に対する戦いとどこが違うのか、を考えました。
 上手に作られた、いい映画ですが、描けていないものに大事なものがあります。
テロをなくすために、テロ組織の根絶を目指してテロ戦争を仕掛けても、テロ組織は再生します。テロを生み出す温床は理不尽な貧困と暴虐です。それをあぶり出し、白日の下で衆人環視にさらすことこそが映画に求められている、と。無理な注文かもしれませんが不満が残りました。