『ハード・デイズ・ナイト』『罪の声』『サイレント・トウキョウ』『恋愛準決勝戦』『ニューヨーク親切なロシア料理店』12月は5本しか見ることが出来ませんでした。月末は年賀状作成と家の片づけに追われて、映画館に行く暇がなかったというところです。でも100本を越えたので良しとしましょう。
『ハード・デイズ・ナイト』
1964年公開のビートルズ映画、旧題は『ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!』。彼らがまだ20代前半、英国から猛スピードで走り始めて、段々と世界の音楽、若者の文化に大きな影響を与え始めた頃です。私はまだ小学生で、この映画もビートルズ自体も知りませんでした。
彼らは70年に解散しますから、グループとしては10代後半から30才までが活動期間です。若くて短いですが、世界の音楽史(他の文化や生活スタイル、若者の生き方もそうかもしれない)に大きな影響を与えたバンドです。ひとり一人が才能豊かだったのでしょう。
映画自体はビートルズの魅力を醸し出しているかと言えばそうではないと思います。映画の後半は彼らのコンサートですが、活動初期ですから、私が知っている歌、例えば「イエスタディ」「レット・イット・ビー」等がなく、恋の歌が中心でした。
ですから映画を見た人たちも、当時を懐かしみながら、あるいはビートルズは、一人一人の人生にとってどんな意味を持っていたのかを感慨をもって見たのではないか、と思いました。
『罪の声』
塩田武士の同名の小説の映画化です。1984年、実際に合ったグリコ森永事件をモチーフにしたミステリー仕立てで、未解決で謎の多い実際の事件を推理して構成したものです。
面白かったです。
実際の事件で、子供の声を録音したテープが脅迫に使われたことを知った作者が、見事に社会性を持った犯罪小説として書き上げています。権力に挑戦する犯罪にはしていません。全体的に複雑ですが破綻がありません。
映画は2か所から動き始めます。一つは京都のテーラーの主人(星野源)が偶然、子どもの頃の声が入ったテープを見つけて、そこに30年以上前にお菓子メーカー(映画では「ギンガ」「萬堂」で「ギン萬事件」)を脅迫した未解決事件に使われた脅迫の声を聞きます。それを録ったのは誰かを探し始めます。
もう一つは新聞社です。特集企画でギン萬事件の総括をしようというものです。この時の報道は、社長の誘拐事件の後に、お菓子に青酸カリを仕込み、企業や消費者を脅した犯人に踊らされます。マスコミは犯人の思うがままに報道させられた、という反省があります。
社会部から外され、文化部で腐っている記者(小栗旬)が動き始めます。
二人の行動は別々に、当時を知る人を探して話を聞くことから始めます。
テーラーの男は、父の弟、叔父が録音した可能性が高いと考えます。小さい時に分かれて今はロンドンに出て音信不通である叔父の正体を追っていきます。
記者は、新聞社にためてあった資料で犯人に接近します。新聞社に通報した男にもう一度、話を聞きに行きます。
そしてこの二人が同じ料亭にたどり着いたことから、お互いに協力するようになります。そこから一気に犯人像、犯人グループに接近します。
脅迫テープの声は3人の子どもでした。後半は、テーラーの男以外の二人の子どもの行方をたどっていきます。大人たち、親がかかわった犯罪によって、子どもに過酷な運命が降りかかったことを明らかにしました。
あまり後味がよくありません。お金の受け渡しのない頭脳的な犯罪、株価操作を企てましたが、それでは分け前が少ないということで、最後は暴力団が絡み、何人かが殺されていました。二人の子どもの人生も悲惨でした。
マスコミを利用した劇場型犯罪を描く、痛快な犯罪映画にならなくて、子どもを巻き込んだ許せない犯罪でした。作家の姿勢がよく出ていました。
『サイレント・トウキョウ』
これはクリスマスの日に東京の繁華街に爆弾テロを仕掛ける映画でした。テレビで首相が「日本を戦争ができる国にする」と公言する社会です。これに反発した犯人は、首相とテレビ対談を要求するのです。しかし首相は「テロに屈しない」と言って対談を拒否します。
最初の爆発は光と音だけで脅します。次は本当に爆発させると言いますが、爆弾を仕掛けた渋谷駅ハチ公前スクランブル広場には大勢のやじ馬が集まっています。
そこで本当に爆弾がさく裂し多くの死傷者が出ました。
映画全体は、ちょっと現代日本を風刺しています。馬鹿なリーダーと「平和ボケ」の人々です。
原作は秦建日子ですが、映画は人間関係等を端折って99分という短さです。犯人は元自衛官の妻で、夫は爆弾処理の専門家、アジアの紛争地に行ってトラウマを抱えて戻ってきて自殺をしています。彼女は夫から爆弾の作り方を教えてもらっていたのです。
いわば戦場、戦争の残酷さも知らない首相が「戦争をできる国」にすると聞いて、怒りで爆弾テロを仕掛けたのです。でもそれで政治の流れや社会が変わったかと言えば、そうは描きません。テロの無力さを描く映画でした。
石田ゆり子、佐藤浩市、西島秀俊などが熱演していますが、何か空回りの感じです。
『恋愛準決勝戦』
1951年の米国映画です。フレッド・アステアとジョーン・パウエルなどのダンスが楽しい映画でした。それだけ。
『ニューヨーク親切なロシア料理店』
これは面白い、私の好きなタイプの映画です。邦題に惹かれて見ましたが、予想とは違いました。原題は「The Kindness Strangers」で、出てくるのはたしかにちょっと変わった人々でした。
警察官である夫のDVから逃げてきた母と子どもたちを、ニューヨークのロシア料理店にかかわる奇妙な人々が助けるという話です。
お金も持たず、着の身着のままで子どもを車に乗せて、田舎からニューヨークの大都市に逃げてきた母クララと二人の男の子。行く当ても、この先どうするかも不明の様子です。
彼らを中心に話は回ります。
刑務所から出てきたばかりの男マーク、老舗だが潰れかけているロシア料理店を任されている。
その友人の弁護士、人が良く能力もあるが人間関係をうまく築けず悩んで、悩み相談のサークルに入っている。
そこのオーナーらしき男、特に何もしない。
働きすぎの看護婦、彼女は病院内だけでなく外でも、貧しい人々を支援する教会のボランティア組織、心に悩みを抱えている人々のサークルで活動している。
普通の企業では「能力がない」と烙印を押された若者。
彼らが絡み合った群像劇のように見えますがそうでもありません。クララとマークがラストで恋仲になって、めでたしめでたしですが、他はそんなに深い関係ではありません。
彼らが、少しずつ関係性を持ち、つながりを持っていて、別々にクララ達を少し助ける感じです。
そんな希薄な繋がりを持つ人間関係が、なぜか奇妙なほど心地よく感じました。隙だらけの映画、隙だらけの人間関係ですが、それがいいのです。