神戸演劇鑑賞会8月例会(2021年8月6日文化座公演)
運営サークルで会報係を担当したために、事前に芝居のあらすじとアジア太平洋戦争敗戦直後の沖縄の状況を把握していたので、芝居をゆっくりと楽しめました。
芝居の時間的な尺度は瀬長亀次郎が沖縄知事選挙に立候補した1950年から超党派の祖国復帰協議会結成の1960年でした。
台本だけではわからない、その10年での阿波根昌鴻や瀬長亀次郎の変化を感じることができました。そしてラスト、屋良朝苗を含めた3人の協力までを描くことで、現在の「イデオロギーよりアイデンティティ」を感じさせました。
苛烈な米軍支配
冒頭、亀次郎の選挙演説から始まります。沖縄を植民地として支配する米国、米軍に対して強烈な批判、反発の姿勢を示し、沖縄県民の団結を呼びかけました。
今回、沖縄の戦後史を調べ、米国の沖縄支配の考え方が、日本の敗戦当初から本土の占領政策と違うことを知りました。戦後の米ソの対立を見込んだ世界戦略の重要な軍事拠点と決めていました。
瀬長亀次郎が所属する沖縄人民党は、1947年に結成され、沖縄返還後に日本共産党と合流します。戦後に合法化された日本共産党は沖縄では非合法にされたためです。
言論を封じ込め「アカ」攻撃で、分断させるという支配者の常とう手段です。阿波根も最初は人民党に近づくことを恐れています。亀次郎に「なぜ米軍、米国を批判するのか」と問うのは沖縄人民党(日本共産党)の政治闘争にかかわることを嫌っていると感じました。
芝居には米軍米兵は出てきません。「銃剣とブルドーザー」での土地接収、農民の追立の苛烈さは言葉で語られます。面白半分に家に火をつけて回る米兵、収穫前の畑に石油を撒いて焼き払う暴挙が見えるようです。
米軍の本質
運営サークルで見た映画『沖縄 第1部一坪たりとも渡すまい』(武田敦監督脚本1969年)では、日本人を見下す米軍が出てきます。戦闘機が基地周辺の畑で野良仕事をする老婆を機銃射撃で殺すシーンまでありました。
キリスト教徒の阿波根は、この芝居を見る限り(彼の著書などを読んでいないので)、最初は米国を民主主義と法治主義で国民の権利を平等に扱う立派な国で、話し合えばわかる、と思っていたようです。
現在からみれば、支配的階層WASP(白人、アングロサクソン、プロテスタント)優位の露骨な人種主義が貫徹していることがわかりますが、敗戦直後は日本軍国主義、天皇専制国家から解放してくれた国と見ていた時期もあります。
沖縄県民の総意である基地用地接収に対する「土地4原則」を無視したこと、米兵の幼女暴行殺人事件等の怒りが、亀次郎の那覇市長当選に結びつきます。
しかし米軍は強引に法律を変えて、彼を市長の座から追放しました。沖縄を力で抑えられると思っています。米軍の高官は沖縄に自治などないと公言しました。
団結と分断
米兵を出さないことと、もう一つ映画と芝居の大きな違いがあります。それは米軍の支配に抵抗する人々がいて、島ぐるみの反対運動がある一方で、米軍に取り入って儲けを得ようとする人々を映画は描き、芝居はそれを省きました。
60年の祖国復帰協議会結成に自民党は参加を拒否しています。それを描かないのはなぜか、と考えました。
それは映画製作の時代と現在の情勢の違いがあると思います。映画は70年安保闘争で保革の対立の時代でした。現在の沖縄では安保容認でも、これ以上の基地負担には反対という声で団結しています。
翁長雄志前沖縄県知事は、元自民党沖縄県連幹事長であり日米安保条約も肯定的で、米軍基地も容認していました。しかし辺野古新基地建設に反対する姿勢を明確にして、共産党も含むオール沖縄の先頭に立って、安倍政権と闘い抜きました。
芝居はそういう変化に配慮していると思いました。
現在でも、沖縄戦の遺骨の埋まった地域の土砂を使って、彼らが命を捨てて戦った相手、米国の軍事基地を作ろうとする、理不尽な自公政権と玉城知事とオール沖縄は正面から闘っています。その一方に政府に従う沖縄の自民党公明党の人々がいます。
権力との闘いは、正面から対立点や彼らの非道を明らかにして、敵を分断し少数派に追い込んでいくことが大事です。
そして味方は多少の意見の相違はあっても、幅広く団結を持つことが大事です。
現在でも、沖縄県が新基地建設反対の姿勢を堅持しながら振興予算3000億円を「もらっている」ことを「甘えている」と批判する、本土の人々がいます。そういう卑しい人間はほっておいて、せめて沖縄県人の中では団結の幅を広げようとする姿勢を感じました。