2021年8月に見た映画

パーマネント・バケーション』『キネマの神様』『ドライブ・マイ・カー』『summer of 85』『ひろしま』わずか5本でした。ちょっと体調を崩して、映画を見る予定の日に家で休んでいました。

 7月の終わりに奈良県吉野に旅行に行って胃腸がおかしくなり、帰ってから大丈夫と思って6日からの4連休すべてに用事で出て、13日から盆も田舎に帰って、雨ばかりだったので、昼からビールを飲むという不摂生で、体調が狂いました。無理をすると後で堪えます。

 『キネマの神様』『ドライブ・マイ・カー』という一般的に評価が高い映画もありましたが、私にはあいませんでした。残念です。ですから本数が少ないにもかかわらず、映画評を文章にまとめるのに手間取りました。

一度で書きましたが、長くしかも冗漫になりました。

パーマネント・バケーション

 今や世界の映画界の巨匠となったジム・ジャームッシュが学生時代につくった長編処女作品です。

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 ニューヨークのような大都会、道路にごみが風に吹かれているような薄汚い下町のアパートに恋人と住んでいる少年と言ってもいい若い男が主人公で、彼の母親は精神病院に入っています。学生のようでもなく働いているわけでもない、フラフラと過ごしている様子が描かれます。

 突然に爆撃で壊れた街と戦闘行為の映像が挿入されます。主人公の心身だけではなく、社会もともに荒廃している感じです。

 ラストシーンは、波止場で彼がニューヨークから異国へ出ていき、同じような男が入ってきます。タイトルは「永遠の休暇」という意味でしょうが、退廃的で、彼の人生の何かを求めての旅立ちという感じでもありませんでした。

『キネマの神様』

 日本の巨匠、山田洋次が松竹映画100年を記念して作った映画ですが、がっかりです。

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 主演が沢田研二で、アルコールで体を壊しギャンブルで街金に金を借りつくす人生の破綻者ゴウを演じています。コミカルな動きは彼なりに頑張ったのでしょう。そこは評価します。

 でも若い時期の彼を演じるのは菅田将暉で、大酒飲みで博奕狂いという雰囲気がありません。彼が老いて沢田が演じる人生破綻男になるのはイメージが合いません。

 日本映画の黄金時代が陰り始めた時代、この男は助監督から監督に抜擢されて、自分の脚本で初作品を撮り始めます。しかし大失敗して途中で投げ出し、故郷へ逃げ帰るという大いなる人生の挫折を味わいます。

 そのなれの果てですから、こんなだらしない男であっても仕方ないのですが、それでも家庭をつくり娘と孫と一緒に暮らしています。これは、彼を追ってきた結婚した老舗の料理屋の娘の働きによるものと思います。

 そして孫と一緒に、彼が昔書いた脚本を現代風に直して城戸賞を取り、有頂天になって、映画を見ながら往生するという、ある面サクセスストーリーとなっています。

 ゴウの青年時代のエピソードがふんだんにあり、いかにも映画のいい時代が描かれます。それは楽しい時代です。しかし失意の時代は描かれません。

 若い時の大失敗は、いつかは取り戻せるというのが、私の信条です。主人公も何度かのやり直しの機会があって、しかしその度に失敗したのかもしれません。そうであっても失意の中で何を得たのか、それが映画では見えません。

 さらに映画の登場人物がスクリーンから出てくるアイデアも『カイロの紫のバラ』と同じ(その元ネタはバスター・キートンらしいですが)今見れば陳腐です。

 全体的にちぐはぐな感じでした。

 山田洋次監督に、新藤兼人監督のような戦闘的な映画を期待しませんが、ひたむきな人生をユーモアに包んで描いてほしいと思いました。

『ドライブ・マイ・カー』

 毎年ノーベル文学賞の候補になる世界の文豪、村上春樹の原作で若手監督のトップと評価される濱口竜介が脚本、監督で、しかもカンヌで脚本賞を取った映画ですから期待しました。

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 でもやはり私には合いません。いろいろと理由がありますが、テーマが理解できないためです。この映画のテーマの一つはコミュニケーションだと思うのですが、それは「言葉で分かりあう」ことではありません。

 演劇の演出兼俳優である主人公、家福悠介(西島秀俊)の演劇は多言語なのです。それぞれ出身国が違う俳優が自分の母語で芝居をするというもので、しかもお互いにその母語を理解できない、という設定です。

 観客には字幕などが入るのでしょうが、役者同士は、言葉ではない、表情やしぐさ、声の強弱、トーンで通じ合うようです。

 家福は広島演劇祭の芝居の演出を担当するわけですから、日本でも評価の高い人物で、それが多言語の演劇であってもいいのですが、そのような芝居は一般的ではないと思います。映画では観客はどのように反応するのか、それは描かれません。おそらく芝居の観巧者が来るので、私のような者は居ないのでしょう。

 3時間の映画で、前半と後半のつながりも今一つ分かりません。似たような仕事をする仲の良い夫婦(夫の家福は演劇、妻の音はテレビのディレクター)でしたが、家福は偶然、家で妻が若い俳優とセックスするところを見てしまいます。しかし「妻の不倫」に対処する間もなく、突然に妻は死んでしまいます。

 彼の心に「なぜ」という思いと困惑だけが残った感じです。

 そして2年を経て後半が始まります。

 家福は、死んだ妻を吹っ切れずにいましたが、広島によばれて演劇祭の準備という新たな環境に入ります。

 彼は古いスウェーデンの自動車赤いサーブを愛用しています。一人でセリフを覚える時空間で、妻の声で吹き込まれたセリフを聞いていました。

 広島まで乗ってきて、ここでも同じことをするつもりでした。しかし宿舎と会場との行き来を自ら運転するのではなく、演劇祭の主催者側の規定で、雇われた運転手に委ねるという状況が生まれます。運転手は抜群の運転技術を持つ女性みさきでした。

 演劇祭のスタッフや役者たち、そして運転手という初めて会う人々ですが、一人だけ妻の浮気(本気か?)相手の若い男優がいて、彼らとの付き合いが始まります。

 大したエピソード(家福とみさきが、彼女の故郷である北海道までサーブで往復するのが大きいかな)が積みあがるわけではないのに、ラストシーンは家福とみさきが韓国に行って一緒に暮らしている映像でした。ずっと暗い表情であったみさきの笑顔がありました。

 私にはまったくわからない、二人に通じるものがあったということでしょう。言葉ではないものでコミュニケーションを取ることに、懐疑的ですがすべての可能性を否定しませんが、それが何であるのか、インターネットで色々な人の解説、感想を読みましたが、納得いくものはありませんでした。

summer of 85

 フランソワ・オゾンの最新作です。フランスの海岸沿いの観光の街、少年たちの同性愛、ひと夏の短いながら燃え上がるような情熱的な経験を描いたものです。

 愛した男がオートバイの暴走で死ぬということ、そしてその痛手から割と簡単に立ち直る兆し、1985年という時代、思春期のあやうさを感じます。

ひろしま

 映画サークルの例会です。1953年に公開された映画で、日教組がスポンサーになり、多くの市民、労働者の協力を得て作りました。上映も一般劇場での上映ではなく、労働組合などが協力した特別上映で全国を回ったようです。

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 原爆投下直後の悲惨な状況を再現しています。CGなどをふんだんに使う現在と違って特殊メイクと本物の瓦礫を使った、この時代の特撮です。

 そしてその後の復興と、被爆者の状況を描きました。

 映画は丁寧に、被爆者の気持ちに寄り添うように作られています。高校生を中心に据えて、その当時の反動的な動きも反映しています。わかりやすい傑作です。

 何よりも驚くのは、広島でも被爆者のことを忘れたような状況が生まれていたということです。GHQの圧力で言論統制があったとはいえ「臭いものには蓋」という気持ちがあったのではないかと思いました。

 それが1954年の第5福竜丸のビキニ環礁水爆実験による被爆、原爆マグロなどで、身近な危険を感じたために、原水爆禁止運動、被爆者を支援する運動は日本国中に広がりました。

 副島圀義(胎内被曝者)さんの学習会を聞いて、現在でも政府は被爆者の認定を制限していて、しかも放射能の後遺症を認めようとしていないことを知りました。