2024平和のための戦争展

8月5日から7日まで、神戸市西区文化センターの1階ギャラリーで標記の展示会をしています。神戸医療生協西神支部主催です。

戦時下の服装

 神戸空襲、集団学童疎開、原爆被害の写真展示に加えて、昨年に私が書いた「戦時下の映画」「戦争と在日コリアン」も掲示してもらいました。

入り口に明治維新以後の日本の戦争の歴史を紹介しています。中国大陸などへの侵略が国家戦略であることははっきりと見ることが出来ます。

最後の写真が「戦争と在日コリアン」のコーナーです。以下に私に書いた説明文を掲載しておきます。昨年の「神戸空襲と神戸港の写真展」から借りています。

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戦争と在日コリアン

 現在の日本で、韓国・朝鮮籍を持った人々は約44万人います。その多くは、日本が朝鮮半島にあった大韓帝国(当時)を植民地化(1910日韓併合条約)した以降に渡日してきた人々の子孫です。

 今年の「神戸空襲と神戸港の写真展」に際して、彼らが戦時下の神戸でどのように生きておられたのか、展示したいと考えました。しかし入手できる写真などの資料はほとんどありませんでした。

 日本の戦争の歴史と在日コリアンについて調べたことを掲示したいと思います。

 日本は日清、日露の戦争を通じて、朝鮮半島と中国大陸を侵略し支配権を広げていきました。それと連動して在日コリアンが増えました。

 彼らは、日本の植民地支配の圧政と、日本が中国や米英との戦争を拡大していく中で、故郷での生活手段を奪われ、仕事を求めて自発的に、またさまざまな手段による日本への徴用、そして最後は強制連行によって日本に来ました。

 日露戦争が始まった1904年に日本にいた朝鮮人233人でした。その後の「日韓併合」によって、1911年には2527人となり、1920年約3万人、1930年約30万人になりました。さらに戦争の激化とともに増えます。日米開戦の直後1942年約160万人となり、アジア太平洋戦争の敗戦の年1945年には約240万人と言われています。

植民地支配の圧政

 朝鮮人たちが故郷を離れて日本に来ざるを得なくなった植民地政策の特徴を年代ごとに簡単に書いていきます。

 1910年代は土地調査事業による「土地よこせ」でした。朝鮮総督府は勝手な法令をつくり「合法的」に先祖伝来の土地をとりあげました。多くの農民が小作農になり、それでも生きていくことが出来ず、土地を離れました。

 1920年代は、当時の日本は米騒動があり構造的に食料不足でした。それを朝鮮から米を移入することで補おうとし「産米増殖計画」をたてました。灌漑施設の改善など農地改革や耕作技術の改善によって増産ははかられました。しかしそれ以上に日本へ「米よこせ」と奪われて、朝鮮でのコメ消費は大きく減少しました。ここでも自作農が小作農に落とされ、小作はさらに厳しい生活になり離農していきます。

 彼らの多くは日本や満州に向かいました。

 1930年代になると「内鮮一体」をスローガンに、朝鮮の民族的な文化、言語を否定する皇民化政策を強行しました。朝鮮語の禁止と日本語の強要、先祖の族譜を否定し日本式の名前を強要する創氏改名、日本式の神社や皇室崇拝などが強制されました。

 戦争が一段と厳しくなる1930年代から1940年代かけて「人よこせ」「命よこせ」政策へとエスカレートしていきます。1937年の日中戦争勃発等以降、若年労働者の不足と軍需物資の大量消費に対応するため、国内的には国家総動員法などを制定しました。しかし国内だけでは足らず朝鮮から労働力を徴収しました。

 1939年には朝鮮総督府と企業が協力した「統制募集」でした。しかし炭鉱労働など劣悪で危険な労働実態が知れ渡り、募集が困難になると「官斡旋」という強制連行が行われます。その結果、家族も含めて100万人もの朝鮮人が日本にやって来ました。

 兵士としても志願、徴兵によって駆り出されました。軍人軍属の数は陸軍257千人、海軍108千人と言われています。これは日本軍の一割にあたります。「慰安婦」にされた女性もいました。

戦後も困難が続く

 1945年、日本はポツダム宣言を受諾し無条件降伏しました。朝鮮も植民地支配から解放されました。日本にいた朝鮮人の多くが、いっせいに下関や博多から帰国しました。

 敗戦の混乱で1945年には在日朝鮮人が何人いて何人帰ったかという正確な数字はわかりません。1946318日時点で647006人が残っていました。その内51406079.5%が帰国を希望したと言われます。

 東西冷戦構造のもとで、朝鮮半島の北はソ連、南は米国の支援により南北が分断され、政治的経済的社会的な混乱がありました。故郷には生活基盤がない状態で、残った人は「状況を見る」という心情になりました。さらに1950年、朝鮮戦争がはじまりました。

 日本に残った朝鮮人たちの生活は厳しいものでした。GHQも日本政府も彼らに対し戦争の補償、人権擁護や生活再建に役立つ政策はとっていません。国民的な感情も差別や偏見が残ったままでした。

 関東大震災1923年)直後に無辜(むこ)の朝鮮人たちの多く(56千人)が、流言飛語に踊らされた民間の自警団によって殺された事件がありました。今でもそれを直視しない傾向もあります。

 戦後は外国人扱いとなり、法制度上でも様々な差別がありました。それらは多くの努力により様々な改善もされてきました。さらに日韓の文化や経済、観光などの交流も進んでいます。

 しかしヘイトスピーチがインターネットで流され、歴史修正主義が教育に政治的な圧力を加えている現状もあります。朝鮮民主主義人民共和国との国交正常化、朝鮮学校の無償化などが課題となっています。

 日本の侵略戦争と植民地支配の歴史を理解し、在日コリアン等マイノリティーの人権を擁護し多文化共生社会を築くことが平和な日本をつくるために必要だと考えます。

参考文献「歴史教科書 在日コリアンの歴史/明石書店