2024年8月23、24日は神戸演劇鑑賞会例会『マグノリアの花たち』でした。会報係を担当したのですが、途中で挫折しました。みなさんにご迷惑をかけてしまいました。
久しぶりに芝居の感想を書こうと思います。ちぎりアンケートは必ず書いていますし、ここでも一年前までは演劇鑑賞会の例会は書いてきましたが「うまく書こう」という気持ちが強かったせいか、しばらくまとまった感想は書けませんでした。心を入れ替えて「思ったまま」を書こうと思います。
芝居の肝
『マグノリアの花たち』は芝居も映画もヒットしたそうですが、私にはその理由がわかりません。実話が元になっていますから、巧妙な筋立てでもなければアメリカ社会を批判的に反映するものでもありません。映画では女優も男優も結構豪華でした。華やかさがあり、女性たちを中心に軽いエンターメント的な会話があり、そこに若い女性の「死」が挟み込まれたような感じです。リアリティはあるが平凡な物語です。
芝居は美容院だけを舞台に、そこに6人の女性が出入りして物語が進展しました。新参者の若い美容師をのぞいて、みんな米国の支配階層であるWASP(ホワイト、アングロサクソン、プロテスタント)と思います。米国の南部、ルイジアナ州の小さな町に代々住んできた、ご近所で比較的気の合う女たちの集まりです。
中産階級のお嬢さん奥さん連中で、決して下町の労働者階級ではない感じです。結婚して町を出ていくシェルビーも夫は弁護士です。
コミュニティを描いているという意見もありますが、その「友情」も悪魔の辞典「天気のよい時には二人乗せることができるが、天気の悪い時には一人しか乗せることができないくらいの大きさの船」を壊すものでもないと、私は思いました。
こういう女同士の「キャアキャア」いう会話、60代40代20代の女たちがジョークを交えた日常的な軽い会話、井戸端会議のような芝居です。
こういう時間を持つことが人生を勇気づけてくれるという女性の意見もありますし、男の居酒屋でのウダウダ話と同じです。
それではこの芝居で何が焦点かと言えば、私は以下のことだと思いました。
「何も起こらない人生をだらだら生きるより、30分でもいい、心がワクワクするような時間がわたしは欲しいの」
これは主要人物である若いシェルビーの意見です。これをどう受け止めるのかが、この芝居の肝だと思いました。
自分の生き方は自分で決める
芝居は、シェルビーの結婚式の日から始まりました。彼女は生まれながらに重い糖尿病を持っていました。髪のセットしてもらっている時に低血糖発作を起こします。周囲の人は知っていましたし、母マリンもいたので、常備しているジュースを飲ませます。しかしシェルビーは素直に飲みませんでした。
私は「変な感じ」と思いました。彼女には、自分の病気に向き合い、それを抱えて生きていく「覚悟」が感じられませんでした。
結婚するにあたってマリンはシェルビーに「子どもを産んではダメ」といいます。医者から「命にかかわる」と言われていたのです。彼女もその時は納得していましたが、妊娠して「わが子が欲しい」と出産することを母マリンに告げます。
その時に、強硬に反対する母に言ったのが上記の言葉です。
自分の人生だから自分の思うように生きる、命の危険性があろうとも「自分の子」を産みたい、という選択も出来ます。
結果的に、子どもは無事に出産しましたが、シェルビーの体はその負担に耐えられず、母から腎臓も貰いますが、死亡しました。
私は、シェルビーが難病を抱えて生きるよりも破綻を覚悟でやりたいことをやる性格だと思いました。それはそれでいいのですが、この芝居を見た我々は、それをどう受け止めるのかを焦点に話が出来たらと思いました。
自分の生き方はどこまで自由なのか、自然的社会的制約、周囲とどのように折り合っていくのか、ということです。
私はそれは非常に大事だという生き方を選びました。そうすることで自分の可能性を広げられたと思います。
芝居全体
このようなテーマを感じましたが、芝居全体を見た時に「70周年にふさわしいのか」という厳しい指摘がありました。
時代背景や米国南部の特性に触れず、奴隷であった黒人などは出てきません。わずかにゲイが身近にいたことや、結婚すれば専業主婦になるべき、などが現代的課題に見えますが、それは部分でした。
軽い芝居はそれなりに面白いと思います。それは否定しません。これはそんな芝居でした。