「キリクと魔女」感想

 このブログが始まったころに市民映画劇場で「キリクと魔女」を上映して、その感想を断片的に書いてきましたが、3ヶ月してようやくまとまりましたので、ここに載せます。ちょっと長いですね。

キリクと魔女
アニメ界に高い峰を築く金字塔
カオス つだわたる
なぜこだわるか
 私は『キリクと魔女』を現代の昔話と思っている。今はやりのアニメーションとは一線を画しているが、近現代までの社会を舞台とする古典的な昔話とも違う。古典的な語り口と登場人物を配置し、しかもその役割は従来の枠組みを踏襲している。その上で、現代的な人格を与え、彼らの関係性や象徴性に現代の人間社会に対する新たな解釈が入っているように思う。まさに「現代の昔話」と呼ぶにふさわしい。
 また7月例会の会員参加が通常の例会に比べて減っている。アニメーションであることから「子ども向け」と見られたためであろうか。そうであるならば、その誤解は解かねばならない。
この一文は『キリクと魔女』の野心的な試みと斬新な表現、現代性を私なりに解題してみたい、あるいは市民映画劇場で取り上げる映画は、いかに通俗的に見えても必ず見所があることを訴えておきたい、と思う心に逸ってのものである。しかし映画自身の魅力に比べ力不足は否めない。
キリクの活躍
 キリクは、お母さんのおなかの中から呼びかけ、自ら生まれ出てくる。そして這い出したとたんに走り出す。人の手を借りて生まれそして育てられる普通の子どもと違う。しかも小さい。昔話の異常誕生譚の「ちいさ子伝説」に沿った始まりである。 
「ちいさ子」は、人間と違う種族(コビト族)ではなく、人間の範疇にある特殊な人間である。その持っている能力も人間的であり、小さいこと、非力であることをハンディとせず、むしろそれを生かして活躍する。
日本では一寸法師や桃太郎、竹取物語がその典型例と考えられる。世界中に、そういう「ちいさ子」伝説、彼らが活躍する昔話は散らばっているようだ。彼らは普通の人間社会の中で、ハンディを持ちながら努力と勇気、知恵、運のよさを活用して、世俗的に出世し財宝を得ていく。伴侶も「美しく、やさしく、賢い」という普通の人が望む最良の人を得ていく。
彼らは、支配層の範疇の道徳観とそれが故の残酷性を併せ持っている。しかも社会的下層の人間の願望を体現してする部分も持っている。けっしてスーパーヒーローではないが、さまざまな知恵を巡らし、機を見るに敏であり、素直な心に惹かれる賢人や異能者、神の手助けを受ける。だから庶民から支持されている。
キリクも能力は彼らと同様である。特別の能力ではなく、子どものもつ率直さに知恵と機敏さを加え、粘り強い真理の追求にこだわり続けた。村に厄災を与え続ける魔女カラバに「なぜカラバは意地悪なの」と強い興味と関心をしめし、現代の最も重い病巣である「無関心」とは無縁である。
そして彼の思考は村人の固定した考え方と対比的である。問題や障害に対して、いわば「天災」のように捕らえず、事物を全体的で関連性、因果律を持った現象として捕らえ、その原因を解明しようとする考え方で臨んでいる。しかも彼はきわめて主体的、活動的である。
カラバの誕生
「カラバはなぜいじわるなのか」というキーワードは、カラバを魔女という反社会的存在、あるいは社会の周辺部の異能者というだけでなく、そこへ押し出された存在、という彼女の転生譚を導き出した。
山の賢人は、カラバを退治するのではなく救うことを示唆した。彼女が魔女となった原因を「男たちによって背中に大きな棘を打ち込まれた痛み」が「憎しみ」になり、それが魔力の元となっている。それを抜くことは、彼女にいっそう大きな痛みを与えることになるが、苦しみと魔力を消し去ることが出来る、と言う。さらにカラバは男たちを食っていないことも明らかにした。
カラバを傷つけ耐え難い痛みを与えたのは男社会である。人類史のある時点、生産力の向上による階級の誕生の時期に、男が優位に立ち女は抑圧された。その象徴はアフリカであればどうしても性器削除とレイプを連想させる。
魔女カラバに対して、キリクは最後まで「恐怖とか憎悪の対象」という固定観念を持たない。しかし村人は、盲目的に彼女を恐れることによって罠に落ちている。男たちを「食われ」、そこで思考停止になっている。
非合理な超常現象力を無批判に恐れ、力を合わせて自らの村=共同体を守ることを考えないし、闘うキリクに協力もしない。それを見越したカラバは村人をさらに高圧的に脅し、彼らの心の弱みに付け込む。この繰り返しは、昔話のパターンである。
それは遠い昔に見た『太陽の王子ホルスの大冒険』(監督:高畑勲)を思い出す。
ホルスとキリクの違いは、キリクが最後まで孤独ということだ
村人を抑圧するカラバはキリクを恐れ、特別の敵とみなす。そして、この三者の関係が、話の核になっている。それぞれが現代社会に対応した何者かの象徴的存在と見るべきだろう。
キリクと魔女』の魅力
この映画は現代的解釈を欲しているというのは言いすぎだろうか。その第一は、話の結末が「キリクが大きくなってカラバを妻として娶る」ことだ。手柄を立てたキリクが「男」になり、魔女として敵対していた女がかわいらしい新妻になるとは、実にエロチックだ。その道筋は、洞窟を這いずり回るという暗示まである。
第二は、舞台をブラックアフリカとしているので、キリスト教イスラム教という一神教の枠組みがないということだ。人間を自然の一部分、動植物界と陸続きという感じがある。近代の個人主義を形成する前の人間像である。そして世界共通的な昔話のセオリーを踏襲したり、踏み外したり、かなり自由な物語の展開となっている。
第三は、キリクの活躍に対して村人は感謝しないし、キリクも労苦に対する報酬をまったく考えない。世俗的な出世、地位と名誉を得ることや、金銀財宝を得るということもない。人が能動的に働くのは何のためか、という根源的な問いかけがある。
第四は、キリクの能力が小さいこととすばしっこさを武器に、知恵と勇気を存分に使って、闘う。魔女は幻想であり、根本的対立はないと説く。キリクの闘いは彼女をそこへ追い込んだものを見つけ出すことであり、彼女を救い出し和解へとすすむ。そしてキリクとカラバは夫婦という新たな対立関係に進むという弁証法だ。
最後にもう一つ、決して民主主義や基本的人権を啓蒙するものではない。しかし、それがない世界の愚かしさを暗示している。
きわめて多面的な人類史の批判が込められた映画であるように思った。