4月27日の朝刊で、[朝日][毎日][読売][日経][神戸]の社説と一面のコラムを読みました。見事に両方共で小沢裁判を取り上げています。多少の違いはあっても、無罪判決に対して、小沢批判と検察批判という論調で共通しています。しかし、この裁判と無罪判決の問題点は何かというのが、はっきりと伝わってきません。
それは目先の批判はしても、政治と金の問題を取り締まる政治資金規正法がザル法で、そこを改正することが最も重要であることを前面に出していないからです。
無罪だが灰色
各紙の社説の出だしは「『疑わしきは罰せず』を地で行く判決だろう」[日経]「結論は白だが、『潔白』ではなく『灰色』という司法判断だろう」[読売]「政治的けじめはついていない」[朝日]「刑事責任を問えないまでも政治家として責任を厳しく問う判決だった」[毎日]「国民の疑念が払拭されたわけではない。小沢氏は謙虚に受け止めねばならない」[神戸]という具合です。
漠然と読んでいると、よくわからないが、道義的とか政治的とか、法律的にはあまり意味のない言葉で、責任を追及しようとしているように思います。つまり法律では裁けない、無罪ということです。
そうしたら新聞は何を追及しようとしているのかというと、それが社説にはあまり明確に書かれていないのです。陸山会の会計報告に間違いがあったということだけではないようです。それだけなら記載ミスと言い逃れが出来ます。4億円という小沢氏から入ってきたお金の記載ミスではなく、それがどんなお金かということを問題にしているようです。つまりゼネコン等からの賄賂ではないかということです。
それを追求する法律はないようです。
コラムの役割
コラムは社説よりも一段とレベルを下げて、ふざけているだけのように見えます。余録[毎日]は、小沢氏が政治資金の抜け道をなくすために「連座制」を言っていたといいますが、彼はその抜け道を知っていたから、無罪であることを確信していたのでしょう。天声人語[朝日]など何を言っているのかわからない論調です。ロッキード事件を引き合いに出していますが、私は、あれとこれと似ているのは、米国と検察の「距離感」だと思っています。編集手帳[読売]は言葉遊びに終始しています。春秋[日経]と正平調[神戸]は、刑事裁判は権力から国民の人権を守るもので「疑わしきは被疑者の利益」という本来の姿にたって判決を下したといっています。正平調は「たとえ真犯人を逃しても、誤って無実の人を罰することがあってはならない」とまで書いて「法の精神の勝利」という、思わず笑ってしまう皮肉まで飛ばしています。
コラムは、もう少し別の観点から、この事件を見たらどうなるか、ぐらいの話題を提供してほしいと思います。例えば4億円は、与党の最大グループが自由に動かせる金としては、多いか少ないか。我々から見れば、大変な金額ですが、現在の日本ではびっくりするようなお金ではありません。1年間でこれの10倍以上も報酬を貰っている多国籍大企業のCEOはいくらでも居ますし、資産にすると、本当にわずかなものでしょう。小沢氏に、天声人語が言うような蓄財術があるように思いません。
だいたい、政治家の賄賂はそんなに巨額だとは思えません。その政治家の利益誘導によって得られる利益は、賄賂の10倍とか100倍になるのですから、それは誰の懐を潤しているのか、その辺りの指摘を新聞はするべきなのでしょう。
政治家が動くことによって誰が利益を得たかということです。田中角栄はロッキード社からも賄賂を貰っていたでしょうが、それ以上に彼の政治活動によって生み出される利益を直接得るという錬金術を持っていた
、という程度の批判をするべきでしょう。