新春の挨拶

例年のとおり、職場の労働組合の正月号に長い長い文章を書きました。
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節目の年、神戸から発信したいこと
70年、40年、20年
二〇一五年は阪神淡路大震災から20年、戦後70年という節目の年です。
神戸にはもう一つ節目があります。それは非核神戸方式40年です。これは1975年市議会全会一致の決議「核積載船が神戸港に入港することを拒否」にもとづき、すべての艦船に「非核証明書」の提出を求めた制度です。
現代と未来を考える時に、過去を振り返り、歴史に学ぶことが大切であることを、多くの思想家や哲学者、歴史学者などが言葉を残しています。
論語の温故知新はすぐに思いつきますし、統一ドイツ初代大統領ワイツゼッカーはドイツ敗戦40周年記念演説で「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在も見えなくなる」、歴史学者E・H・カーは「歴史とは過去と現在の対話である」といいました。
節目の年に、過去から学ぶべきことを振り返って見ます。
戦後70年
私が市役所に入った一九七八年には、戦争を体験された職員がおられました。都市計画局(当時)の仕事で、戦災復興事業はまだ大きな割合を占めていました。三宮の中心部に残っていたバラック小屋の街区はポートピア81で一掃されました。
今では、戦争も焼け野原の神戸も、混乱した社会も知る職員は誰もいません。
国会でも戦争を体験した議員が少なくなる中で大転換が生じています。二〇一三年末の特定秘密保護法国家安全保障会議の設置、そして昨年7月の「集団的自衛権の行使」閣議決定と、安倍政権は足早に戦争をする体制を作りました。自衛隊の海外派兵を狙っています。
これには、自民党の長老(総裁や幹事長経験者等)たちも反対しました。戦争を体験している彼らは「戦争しない」日本を大切にしてきたのです。
戦争を知らない自民党世襲議員がどんどん増える情勢で「威勢のいい声」が聞こえてきます。
彼らの多くは、アジア太平洋戦争で日本が犯した過ちを認めようとしません。その代表格である安倍首相は、過去には従軍慰安婦を否定する団体の中心に座り、この戦争を「自衛の戦争」という靖国神社参拝に固執しています。中国人に人体実験をした731部隊にも無頓着です。
だから彼らは中国や韓国の人々と心を開いて話し合うことができません。
戦後70年、日本は、積極的に平和外交を展開したとは言えませんが、他国の戦争に武力介入していません。原水爆廃止の市民運動は世界の平和運動をリードしてきました。また従軍慰安婦問題を謝罪した河野談話(一九九三年)やアジアの国々に対する植民地支配と侵略戦争を反省する村山談話(一九九五年)を出し、少しずつ戦争の加害と被害を見つめてきました。
昨年、憲法9条がノーベル平和賞の候補になりました。受賞は出来ませんでしたが、戦争を徹底して否定する憲法があると世界に知らしめました。
戦後70年、私たちの暮らしの根底に、この憲法がありました。日本は戦争に参加せず、国内にテロを招くこともなく、経済成長を追求したのです。この方向を変えてはなりません。
非核神戸方式40周年
そのノーベル平和賞を日本人でもらったのは、唯一佐藤栄作元総理大臣です。彼は非核3原則(核兵器を持たず、つくらず、持ち込ませず)を日本の国是とすると言明し、米国に占領されていた沖縄返還(一九七二年)に際して、これを主張したことを評価されました。
この受賞に対しては、その当時から、佐藤政権は米国の侵略戦争であるベトナム戦争に加担してきた、という批判はありました。そして今では、受賞の主な理由となった非核3原則そのものが欺瞞であった、日米政府は米軍の核兵器持ち込みを認める密約を交わしていた、ことも明らかになっています。沖縄返還に際しても核兵器持ち込みを認めるなどの密約がありました。
国家権力は「国益」を理由として、堂々と嘘をつき続けるということが明らかになっています。
ノーベル平和賞受賞が一九七四年です。翌年一九七五年に、その非核3原則を地方自治のもとに実施する非核神戸方式が市会決議されました。これは港湾管理者を自治体の首長とする地方自治の原則を生かして、宮崎辰雄市長(当時)は神戸港を軍港化させない、平和な国際商業貿易港として発展させていく決意を示しました。
これ以後、神戸港には米国軍艦は一切入港せず、世界に冠たる平和の守り手となっています。
現在、非核宣言自治体は41道府県兵庫県はしていません)、20政令市、23特別区、1503市町村です。
非核宣言自治体は一九八〇年英国マンチェスター市から始まりました。一九八一年当時は日本では31自治体でしたから、神戸市は先駆的です。
自治体の協力で核兵器廃絶をめざそうという平和首長会議(神戸市は二〇一〇年加盟)は、一九八二年広島市長と長崎市長の提唱で結成されました。ここには160国・地域、6435都市(国内では1530自治体)が参加し、二〇二〇年まで核兵器廃絶をめざす「二〇二〇ビジョン」が取り組まれています。
しかし神戸港と同じような制度を持っている港湾都市は、残念ながらまだありません。
神戸と同じ制度を作ったのはニュージーランドです。一九八七年ロンギ労働党政権は核兵器搭載船を拒否する非核法を成立させています。
非核三原則の「持ち込ませず」を具体化する非核神戸方式が広がることを、国や米国は非常に恐れています。神戸市にはあらゆる角度から強い圧力がかけられ続けていますし、それをめざす自治体を徹底的につぶします。
このことから核兵器廃絶を一歩でも進めるために、平和を守るために地方自治体が動くことはとても有効であるとわかります。
阪神淡路大震災20年
長田区から東へ、軒並み家がつぶれ、大火で焼け野原になりました。焼けたアーケードの鉄骨がぐにゃりと曲がっているさまは、まさに戦場でした。多くの犠牲者が出ました。『50年目の戦場』と言う、一人一人の被災者の思いを込めた朗読劇が作られました。
避難所や仮設住宅での避難生活をする住民を支援することは、私たち自治体労働者の仕事でした。全国の仲間から支援を受けました。まちの復旧復興にも全力であたってきました。
あの時、多くの人は戦後50年、営々と築いてきたものは何だったのか、と言う問いかけをしました。
それから16年後東日本大震災福島原発事故が発生しました。その被害の大きさに唖然としました。この巨大な天災人災は人間文明と社会の根源まで遡って見直しを求めています。
現在、神戸市の職員にも、阪神淡路大震災を経験しない職員が増えています。それを「忘れてはならない」ため、若手職員が体験者から聞き取りする取り組みも行われています。
この20年を振り返って、いろいろなことを思い出しますが、私的には「室崎先生の涙」が印象に残っています。震災前の神戸市の地域防災計画に係った室崎益輝さん(当時、神戸大学助教授)は、直下型地震を想定した意見を反映させなかったことを、厳しく反省されていました。ある講演で、被害の大きさに触れたときポロリと涙をこぼされました。
現在の神戸市の礎を築いた宮崎辰雄元市長も、神戸市が活断層の上に立つ都市であると地震学者から指摘されながら、直下型地震を想定しませんでした。予算や制度の問題が大きな壁であった、と聞きます。
福島原発所長の「吉田調書」では、事故の後でも「メルトダウンによる東日本の全滅を覚悟した」と言いながら、それでも今回のような大津波を想定した災害対策は出来ない、と言い切っています。
鹿児島県川内原発も火山噴火を想定外にして稼働を進めています。
想定外の事態が生じました。なぜ厳しい状況を予想しなかったのか、地域住民の命と暮らしを守る最後の砦である自治体の責任を突き詰めて考えること、想定外を放置しないこと、これが教訓ではないでしょうか。
自治体の役割
 東南海、南海大地震など「起きる可能性のあるものは、例え確率は低くてもすべて起きる」と言われます。どのような事故や災害を想定し対応するべきなのか、予算も科学技術にも限界がありますが、地域住民に最も身近な行政機関として、想定外=「思考停止」としないことが大切です。
あらゆる可能性について研究し、その情報とそれに関する議論をすべて公開し、出来ないことも含めて、地域住民に正確に、わかりやすく、常日頃から情報提供をしていくことが、自治体の役割です。
そして現場の実体験です。東日本大震災の現場に立つこと、広島市丹波市の土砂災害を「他人事」と捉えるのではなく、現場に行き被災者の中に入る経験を積み上げることが求められると思います。
20世紀末から人間社会は「時代の峠」にいます。一つは異常気象と大地動乱という大自然災害頻発する地球環境の時代です。二つ目にはグローバル経済が進展するもとで、国際間も、各国内でも深刻な格差が拡大しています。三つ目は戦争と無差別テロの拡大です。さらに日本では人口減少が深刻な課題になってきます。
人間社会を構成する重要な要素である地方自治体は、それらをどう考え、対応するのか、この峠を越える道を捜さなければなりません。その一員である私たちも、過去を振り返り、身近な課題と時代の課題を考えたいと思いました。