駒ヶ根ハーフマラソンを走るのが目的ですが、9月27日~30日で自治体でいうと阿智村、駒ヶ根市、伊那市、馬籠、岐阜の養老町と巡りました。
満蒙開拓平和記念館
27日は神戸から山陽、新名神、名神、中央と高速道路を走って、阿智村の満蒙開拓平和記念館に行きました。長野県から多くの開拓民に満州に渡りましたが、終戦間際にここ阿智村から満州に行き、多くの人たちが帰らぬ犠牲となりました。
この建物は阿智村が土地を提供して市民団体が建設運営しています。
いくら戦争中とはいえ、大日本帝国は酷いことをしたと思います。
「満蒙は日本の生命線」と勝手なことをいい、満州国をでっち上げてそこへ貧しい農民に土地を与えるという約束で行かせました。そこは荒野を開拓するのではなく、既に中国人などが耕作している土地を取り上げて、やってきた日本人に与えたのです。自分の土地を耕していた中国人は小作として働かされるということになります。
ソ連が攻め込んできた時に、住民を守るべき関東軍はいません。関東軍の幹部の家族や南満州鉄道の幹部などは、危険を察知して日本に帰っていたのです。
日本に帰るまでにたくさんの人が殺され、飢えと寒さで死んだそうです。一部には中国に残留孤児として残った人もいます。
無事日本に返ってきた人たちは歓迎されるどころか、故郷から追い出されて、未開の荒野を開拓して生計を立てたといいます。
そのようなことは、人々が書き残した資料として展示されていますが、生存者のインタビューも流されていました。
平成天皇の歌がありました。無念の人々を前に彼が「難き日々」の苦しみをどのように受けとめたのか、戦後も棄民政策を取り続け、中国残留孤児などにほとんど生活支援をしてこなかった政府をどう思ったのか、心中を知りたいと思いました。
この日は、そのまま北上して駒ヶ根市の宿舎に入りました。その途中、わずか2,30kmの距離の中に阿智村、飯田市、高森町、松川町、中川村、飯島町そして駒ヶ根市と小さな自治体がたくさん残っているのに驚きました。
平成の大合併で、多くの小さな自治体が潰されて田舎の疲弊は大変なものがありますが長野県は踏ん張ったところが多いようでした。
28日はまた書きます。