13人の刺客

 18日のレイトショウで見ました。少し酔っていましたから、的確な表現ではありませんが、こんなものか、という感じです。
http://13assassins.jp/main.html
 ストーリーはHPを見てください。ここでは書きませんので。感想だけです。
 確かに殺陣はすごかった。13人の剣の達人たちが、200人を相手に必死の立ち回りをしているのは、見ていて「おっ、おっ」というほどの面白さでした。殺陣師の皆さんの面目躍如という映画です。でもそれだけという思いも持ちました。
 映画全体として見るとどうでしょうか。私は「斬り取り強盗は武士の習い」が侍、武士の本性と思っていますから、この映画の武士の軽さは、そのとおりと思っています。でも役所広司が「天下万民のため」を乱発するものですから、そんなことはこれぽっちも考えていないくせにと反発せざるを得なくなりました。
 それともう一つ、稲垣吾郎明石藩主は残忍無比の殿様ですが、現在では、そんなものはざらにあることです。飛び抜けて残酷な人物設定ではありません。手足を切り落とされた娘は本当に可哀そうですが、「花はどこへ行った」で枯葉剤の被害にあった子どもたちを見た後では「狂気の殿の乱心」という程度の不愉快さです。枯葉剤訴訟では「戦争だからどこが悪い」と米国の一流大企業に開き直られていますし、国際世論がそれを追い詰めているわけでもないですから。
 島田新左衛門の怒りはもっともです。明石藩主の振る舞いは、彼が考える武士道ではないと思ったことでしょう。しかし彼が現在に生きていたら、近代戦争のあまりにもの残酷さで狂い死にしたのではないかと思います。日本で言えば原爆の被害者、731部隊の人体実験は、人間は平等など考えたこともない江戸時代の人間であっても、そこまでするのは狂人と思うでしょう。でも現在では、民主主義を標榜する一国の責任者はそんなことを簡単に許可します。イラクアフガニスタンでは、女、子どもであっても米国兵士から見れば、味方と分からなければ殺すのは当たり前になっています。わざわざ異国の地に出向いていってそういうことを平気でやれるのです。
 人間という生物は、とことん残酷に出来ているのでしょう。
 この映画では、江戸幕府の根幹を揺るがせかねない「狂気の殿」を排除するのは、まさに武士の習いでしょう。明石藩御用人鬼頭半兵衛の「何があっても主君をお守りする」は誤りだと思います。江戸時代では家を守ることこそ大事であって、そのためには殿様も一つの手駒に過ぎないと、賢い筆頭家老は思っていると思います。主君の血筋よりも徳川家につながる養子が大事です。
 ですからこの映画に出ている上士は、みんな愚か者といえるでしょう。自分の命に代えても、幕府より遣わされた殿を守らなければならない理由はありません。色々と理由をつければ取替えがきくのです。「侍の家に生まれたものの宿命」などありません。侍が雨後のたけのこのように生まれた戦国時代では裏切りは日常茶飯事です。
 それを隠すために江戸時代の儒教は封建時代の道徳律を作りました。ですが先ほども行ったように侍の本性は変わりありません。
 この映画でも最後にテロップが流れますが、すべて病死で処理されます。それで明石藩がお取り潰しに合うわけではないのです。それなのに無理して主君を守るのは、一つのゲームでしょう。現実の損得ではなく、架空世界の戯言です。この映画に現実性を求めるのは「八百屋で魚を求める」類でしょう。
 派手な立ち回りが「七人の侍」に似ているところもありますが、かの映画と志が違います。役所広司の島田新左衛門は志村喬の勘兵衛がいう「勝ったのは百姓だ」はいえません。なぜなら「天下万民のため」といいながら、彼は何も考えず武士の習性どおり行動します。落合宿を買い取りますが、金ですべてを解決し百姓町民の心根を知ろうとするわけでもありません。
 しかも絶対的な目標、明石藩の殿を殺す、ということに対してそんなに熱心ではないと思いました。たった13人で200人300人に守られた人間を殺そうというのは、無謀極まりないのです。兵法の初歩すら学んでいないのではないかと思います。多勢に無勢ではどうしようもないという、多少腕が立つとかは関係ないという、いくさの原理を無視しています。
 しかし少数で多数を破るのが命題ならば、それを現実のものとするために策を練るのが兵法の極意ではないでしょうか。古くは楠正成、豊臣秀吉宮本武蔵など少数で多数を破る工夫をしています。火攻め水攻め兵糧攻めなど、相手の力をそぎ落とす工夫は枚挙に暇がありません。
 ですから落合宿全体を罠にするのは、それはそれで正解です。しかし明石藩の「殿」をしとめる最後までストーリーを作っておかなければなりません。それを怠った島田は未熟者という謗りを免れません。
 それなのに、そんな彼らを老中は切り札に使う、というのはありえるでしょうか。いいえ為政者はそんなに甘くありません。
 私は、映画のラストシーンには、老中の手の者たちが取り囲んでいるというシーンが出てくると思っていました。老中は密偵を送り込んで、いちいち島田の作戦をチャックして、その穴を最後に埋めるという万全を期す、と思いました。そうでないと、武士などという愚かで卑怯なものたちに、支配者の命運を握らすわけにいきません。武士の本懐といいながら殺しあうのはやってもらっていいのですが、御公儀を揺ぎ無いものとするための謀は老中の必須事項です。
 それでは、この映画を現代によみがえらせた意味は何でしょう。サッカーや野球の「サムライ日本」はこんなに嘘っぱちだといいたかったのでしょうか。あるは逆に立派だといいたいのでしょうか。私には分かりません。