『左の腕』の感想

『左の腕』無名塾公演 神戸演劇鑑賞会12月例会1215

 仲代達也「役者生活70年周年記念作品」です。原作は松本清張の連作短編集『無宿人別帳』の一つ「左の腕」です。

 この原作には10本の短編があり、それぞれ多くの映画やテレビドラマが造られていますが、私は映画『無宿人別帳』(内田吐夢監督、三國連太郎中村翫右衛門等)やテレビドラマ『町の島帰り』を見ています。芝居とは随分とイメージが違いました。

 これらは無宿人のあまりにも辛い人生を描いていました。

 それに比して芝居は明るい終わり方です。これは、おそらく仲代さんの意図があったと思います。

 それで芝居の台本と原作を読んで、これを書くことにしました。

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 仲代達矢は謎めいた雰囲気を持つ主人公卯助を見事に演じていました。貫禄の芸だと思います。存在感もありますし、殺陣の動きも90近いという年齢を感じさせません。

ちょっと痛快だが

 料亭松葉屋の板前、銀次は同じ長屋に住む卯助と娘のおあきのことを気にかけていました。卯助が飴細工の荷を担いで、子ども相手に売り歩いて生活を支えています。しかしけっこうな年格好であり不愛想で、とても商売上手ではありません。苦しい生活ですが、おあきは気立てのいい働き者の娘に育っています。

 銀次は自分の店の女将に紹介して、二人はそこで働き始めました。彼らの評判は上々です。

 松葉屋に目明し(岡っ引き、下っ引きともいう)の麻吉が出入りします。彼は2階で旦那衆が違法な博奕をしているのに感づき、目こぼしして金をせしめていました。

 さらに麻吉はおあきに横恋慕して「お上の威光」をかさに「妾になれ」と迫っています。

 彼女に惚れている銀次に嫌がらせをします。父の卯助に対しても、彼の左腕にまかれた白い布を目ざとく見つけ、脅しをかけていました。

 卯助は、飴屋のじいさんでありながら、寡黙な佇まいに、見るものが見れば「普通のじいさんではない」という感じです。目明しの麻吉に脅かされているときも、下手に出ているけれども、おどおどした感じがありません。

 ある日、松葉屋に押し込み強盗が入り、店中の者が縛られます。その中に麻吉もいました。知らせを聞いた卯助は樫の棒を持って駆け付けます。

 彼は、長脇差を振りかざす盗人2、3人を棒でたたき伏せます。それを見た首領が「蜈蚣(むかで)の兄貴」と呼びかけました。

 卯助の素性、彼の女房になった女、おあきの母親が明らかにされます。

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 強盗一味は店の者を解き放ち、何も取らずに去っていきました。卯助は店の窮地にあって、麻吉も含めて全員の命を救いました。

 彼の正体がばれますが、凄むでも開き直るでもなく、恬淡としています。元の「飴屋に戻ればいい」という台詞も素直に聞けます。松葉屋をやめる覚悟です。

 しかし松葉屋の女将は、おあきを引き続き手元に置くと断言します。おあきは銀次と所帯を持つかもしれない、という余韻を持って終わりました。

 松本清張の小説とは、性格を変えた芝居であると確信しました。

原作と比べて

 原作『無宿人別帳』は矛盾した言葉です。江戸時代の戸籍簿、百姓や町人などの宗門改めでつくられた人別帳から外されるので無宿人と言われ、その人別帳などありません。生活苦から故郷を出奔、あるいは勘当、軽犯罪などで、世間から外され無宿となった彼らの生きざまを描くことを、松本清張は人別帳と見立てたのでしょう。

 無宿人になると保証人もいないので、なかなか正業には就けなかったようです。軽犯罪を犯し腕に入れ墨を入れられ、その家族までも差別の目で見られます。

 原作の『左の腕』は、腕の入れ墨をめぐる卯助と麻吉が中心のあっさりとした物語です。麻吉は、お上の御用を務める目明しですが、その権力を悪用して商人や町方を脅して小銭稼ぎをしています。

 元盗賊であった卯助と人間性の対比が強調されていると思いました。

芝居は、全体的な人間関係等は原作通りですが、おあきをクローズアップし、彼女の母が卯助を更生させた挿話があります。そして麻吉の厭らしさに対抗するように、女将と銀次が配置されています。

 原作が無宿人、社会の底辺に落ち込んだ人間の厳しい状況を描いたのに比べ、芝居は厳しい中でも、庶民の中には助け合いの気持ちがあることを付け加えました。

 それは現代社会への期待でもあると、私は受け止めました。

最後のセリフ

 原作は卯助に「なまじおれが弱みをかくしていたからだ。人間、古疵でも大威張りで見せて歩くことだね。そうしなけりゃ、己が己に負けるのだ。明日から、また、子供相手の一文飴売りだ。―子供はいい。子供は飴の細工だけを一心に見ているからな」と言わせます。世間の風の冷たさと、その向かい風に対峙する覚悟、あきらめを感じさせる台詞です。

 芝居では、この前半の言葉はなく「明日から・・・」だけです。開き直りの度合いを薄めて、卯助はともかく、世間様の助けを得て、おあきは父親とは違う人生を送れそうな、余韻を残しています。

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ちょっと疑問

 「10両盗めば首が跳ぶ」と言われた時代です。蜈蚣の卯助は殺生をしなかったとしても二つ名の持つ盗賊です。捕まれば重罪ですが、江戸で「仕事」をしたわけではないようです。

 現在なら、地方で強盗をしていたら江戸でも重罪人とし逮捕されるでしょうが、この原作と芝居をみると、そうはならないようです

 幕府の直轄地では「指名手配」的なことはできるでしょうが、地方の各藩にまでそのような協力関係が出来たのか、どうなのか疑問です。出来ていないみたいです。

 この物語では卯助は地方で悪事を働き、知り合いのいない江戸に出てきた、という逆のパターンです。

 各藩それぞれ、目付や町奉行的な警察機能を持ったものはあったでしょうが、それが連携するのは明治の中央集権国家になってからのようです。