11月3日という日、ジャーナリズムの見識

 今日が何の日か。もちろん文化の日。「自由の平和を愛し、文化を進める」と「国民の祝日に関する法律」に書いてある。これは日本国憲法の公布の日であることを象徴する言葉である。でもこの日は、戦前は明治天皇の誕生日で天長節であった。
 今、この文化の日を紹介するときは、当然、憲法公布の日というべきだろう。しかしABCアナウンサーの三代澤康司は、明治天皇の誕生日という紹介をしていた。神戸新聞を見ても憲法に関する記事はない。正平調を読んでも文化に関わったエッセイであり、その文化の根本にある憲法には一言も触れていない。
 戦前の戦後の断絶は強調するべき問題だと思っている。同じ文化であっても価値観が変わっていると強調しても強調しすぎではない。にもかかわらず、ジャーナリズムは、そこを曖昧にしているように思う。
 その例の一つに、神戸新聞夕刊10月30日の「論説さろん」がある。「神戸詩人事件」(詳細は映画サークルの機関誌2009年12月号の戸崎論文を参照)を取り上げ、厚生労働省課長の冤罪事件における検察の文書偽造事件を「まったく同じ構造だ」という神戸市詩人の言葉を紹介している。そして「権力の暴走を監視するには、表現の自由があること。ペンが沈黙しないこと」という重要な見解を述べている。
 まず「同じ構造」なのだろうか。戦前は死刑を含む治安維持法がバックにあり、その実行部隊特高警察が裁判にかけることなく、被疑者を虐殺することも多くあった。厚労省の冤罪事件のレベルではなく、国家・天皇に逆らうものは殺してもいい、と言う権力の暴力性があった。このコラムには思想を処断する特高警察という言葉がない。
 特高警察というと、戦後の兵庫県政に結ぶつくからだ。県政の中枢に特高官僚を抱え、金井、坂井と言った特高出身知事を排出している。その後、貝原、井戸と官僚の天下り副知事、知事という系譜を保ち現在に続いている。治安維持法で逮捕された経歴を持つ宮崎元神戸市長の系譜である神戸市政と根本的に相容れない要因はそこにある。神戸新聞論説はそのことは十分知り抜いているから、特高警察という言葉を使わないと思う。
 彼らは「浜と山の対立」という揶揄した言い方はするが、その根本的なところまでは、分かっていても言わない。強い自制を働かせる。
 「虚偽の自白を強要された冤罪だった」と言論、思想を弾圧した治安維持法の本質を「冤罪」という言葉でごまかしている所に、気づかないのだろうか。
 現在は、まだ思想を断罪する刑法はない。しかし自民党政府は「国家機密法」や「共謀罪」といった治安維持法に似た法案を出してきた。そして彼らはそれをあきらめたわけではない。現在日本の危機の側面をいわず、「ペンが沈黙しないこと」と遠まわしの言い方をしても危機感も迫力もない。なによりも言論の自由を奪う法律ができる前から、強い自制、内部検閲に対する危機感はないのだろうか。