「疑似科学入門」池内了 岩波新書

 前の「科学の落とし穴」以来、すっかり池内先生のファンになったもので、図書館で読もうと西図書館で検索すると、子供向けの本以外ではあまりないという蔵書の状態だった。それでもこの本が在ったので早速借りて読んだ。
 科学者の目から見た社会的な問題を的確に取り上げているように思う。題材は「疑似科学」という科学の装いはしているものの理性的、合理的な考え方を排するような社会問題を暴くものだ。安斎先生の「人はなぜ騙されるのか」とか「奇妙な論理」と同じ論旨で、非科学、超科学的な「理論」で人間を思考停止に陥れる言説を明らかにする。
 安斎先生の本を探し出すことが難しいので、違いを明確に指摘できないが、安斎先生は騙される者の精神状態を解明するほうに力点があったように思うが、池内先生のこの本は、騙すほうの論理を解明している。しかもその背景となる社会状況について明確な意見を述べている。
 「はじめに」で「情報発信の時代といわれながら実態はそうではなく、情報の送り手と受けての間には大きな非対称性がある。」「情報があふれているかに見える現代、実は真の情報は少なく、パフォーマンスを駆使して世論を操作しているのである」と意図的に作られた情報に踊る現代人の姿を明きからにしている。
 第1章「科学時代の非合理主義」では非合理の塊である宗教を否定せず「物質世界の動向とは一線を画し、人間の精神世界の事象のみに特化していることにその存在意義がある」と認め、それとはまったく違う「擬似宗教」は物質世界まで支配できると自認し、信者に物質的な見返りを要求する、と喝破する。
 人間の「信じる」という行為を解明して「情報を得る」と「信じる」の間には「認知」(知覚、記憶、思考、判断)という情報処理する過程があり、さまざまな錯誤や偏向によって、誤ったことを容易に「信じる」ことがあるという。
 第2章「科学の悪用・乱用」では「資本主義的利用」、つまり儲けるために科学をゆがめて利用する実態を暴く。色々な悪用例をあげているが、物理や科学用語を使った単純なものから統計、確率を使ったり高等技術まである。ユングフロイトといった深層心理学の大家の言説まで遠慮することもなく「疑似科学」と断罪する。
 第3章「疑似科学はなぜはびこるか」では社会背景を明きからにする。その一番は「すべてお任せ」の風潮。そして技術による道徳の代行。「現代の神話」である。原子力、教育の荒廃、民営化、行政改革、さらに付け足せば「公務員」にも神話がまかり通っている。
 ブログについても言及している。自分の意見を表明する手段をもてなかった人たちも声を挙げることができると評価する。しかし自己中心的になりすぎていると批判する。「検証しないで一方的に断じる」さらに匿名での「無責任体質を許容」している、ということには自省しなければと思う。
 第4章「科学が不得手とする問題」では「複雑性」の科学の課題とそれを「不可知論」に落とさない「予防措置原則」を著者の信条としてはっきり示す。複雑系の典型は人間であり地球である。それに関わるいくつかの事例を論じている。
 終章「疑似科学の処方箋」では、懐疑する精神を育てることの大切さを示す。疑って納得して信じる、ぐらいの余裕が必要である。どんな意見についても鵜呑みにせず、自分で「裏を取る」調査が必要である。
 この本を読んで電車で携帯電話切る必要性を感じた。これはマナーの問題ではなく、携帯電話の電磁波がペースメーカに影響を与えることに対応する、他者の生命と基本的人権に対する配慮の問題だ。インターネットでこの問題を検索すると、ウィキペディアはまったく影響ないといっている。しかし、影響があるという意見も書いてある。それで予防措置原則にのっとり、電車では携帯電話のスイッチを切ることにする。