「白夜行」「最後の忠臣蔵」

 両方とも期待はずれ。『白夜行』の方がまだましだった。
白夜行
 東野圭吾は嫌いではないのだが、続けて本を借りることはない。おそらくそこで描かれる人間像に魅力を感じないためだ。『白夜行』は東野文学の最高峰、という売り文句だが、やはり残念ながらうまくない。


 HPでは「昭和55年から平成10年」という書き方だが、1980年から1998年と読むほうがわかりやすい。「高度経済成長が終わり、低成長時代といわれながら『ジャパン・アズ・ナンバーワン』という先進国の『トップ』立つ経済成長、それがバブルへと膨張して、そして破裂。そのまま『失われた10年』」という浮き沈みの時代である。
 映画からは、あまり沈む感じがない。それは主人公は「上昇」しているためだろう。
 松本清張の原作を映画化するときは時代感覚がほしいと思うが、東野はどうだろう。そんなに時代を取り込んだ感じではない。ただ主人公の女には「貧困」という要素が必要だ。彼女が幼き頃に住んだ地域の貧しさは、高度経済成長から取り残された地域という設定になっている。その一方で「1億総中流」という幻想を味わう時代だから、まあこんなものだろう。
 その時代以上に事件の特性が、この小説の核心だろう。発端となる殺人事件が一見平凡でありながら、どことなく異常であり、そのために「被疑者死亡」という未解決になる。その事件に関わる人間像が19年にわたって変化、発展しながら、新たな事件を巻き起こしながらつながっていく。
 その事件の被害者の息子と、被疑者の娘が主人公となって進む。二人は接点を持っていないはずだが、それぞれの周囲で事件が発生する、という謎がちらばめられる。
 そのあたりは面白い展開だと思う。生涯をかけて事件を追う刑事役で船越英一郎が出ているが、テレビドラマと違って暗い感じの、清張者に出てくる刑事風で、なかなか味がある。
 何が不満かといえば、その平凡な殺人事件に隠された異常さは納得できても、それが19年間にわたって主人公となる男女を結びつけるものかどうか、という点だ。
 私は、謎解きも含めてすべて事前に知っても、いい映画は面白い、と思っている。しかし、この映画はそこまで力がないので、言わないで置くが、謎と異常さは、主人公二人の結びつきの強さを抜きには納得できない。で彼らがお互いを知る時間は非常に短いので、納得できなかった。二人の気持ちがわかるわからないではなく、時間だ。それが人間にとって必要なときもある。
最後の忠臣蔵
 役所広司佐藤浩市も、よくこんな映画に出たなと思う。むちゃくちゃだ。まだ例えばテレビの『水戸黄門』の方が筋が通っていると思えるような映画だった。
 佐藤浩市はこんな映画出ているようでは、父の足元にも寄れないだろう。論評する気にもなれない。