京都で「その街のこども」

 1月15日に京都映画サークル協議会の例会「その街のこども」をみて、それから合評会に参加しました。全部で14,5人いたかな。
 この映画は、こどもの頃に阪神淡路大震災を経験した若い男と女が主人公です。1.17の前日に神戸にやってきて、偶然知り合った二人が、反発しあいながらも、震災の経験を振り返りながら、深夜の神戸の町を一晩中歩き回るという話です。


 主役は森山未來佐藤江梨子で、ほぼ二人の芝居です。彼らは典型的な現在の若者を演じます。小学生と中学生という、少しものを考えることが出来る時に阪神淡路大震災を経験し、しかし早い時期に神戸から出て行った二人です。ですから、震災を「経験」したといっても、その度合いはそれほど深刻ではありません。家が壊れたり家族が死んだというわけではありません。
 まあ、そういうこともあるわな、という話です。身近な人の死や避難所生活、仮設住宅とか、いろいろあった人から見れば、これではあの恐ろしさはわからないというでしょう。自然の力の大きさも人間社会のもろさも感じることはできません。
 でもこの映画は現代の若者像を描くというのが狙いではないかと思います。彼らはこういう風に考え、感じるのかと思いました。



 私はこんな風にしゃべるのです。身振り手振りが入っています。この後夕食も食べて楽しい一日でした。
(補足)
 このときの模様が、京都の機関誌に漫画で紹介されるということで、事前に原稿を届けていただきました。ありがとうございます。本当に上手な似顔絵です。私が言ったことも、そのまま載っていて、それでいいのですが、それにショックを受けたという言葉がありましたので、少し補足しておきます。
 この映画は阪神淡路大震災を大きな背景として、あるいはそれに対する思いを主題にしています。その映画に対して、私は「二人は被災者ではない」と言い切っているのです。
 それは今でもそう思っています。私もそうですが、彼らは地震を体験した人であって被災者ではありません。
 これを読んでいる人は何のことかわからないでしょうから、もう少し映画の説明をします。
 男の子は工務店の息子で親が震災復旧工事などで大儲けをして友人から批判されて、そのまま東京へ行き建築家になっています。女の子は山の手の大きな家に住んでいてほとんど被害がなかったけれども、友達の女の子が死んでいます。その後、親の転勤か何かで街を出ています。
 大災害は誰にでも平等に来ますが、被災のあらわれは社会的な階層を反映しています。簡単にいえば金持ちは壊れにくい家に住んでいるとか、ガスや水道が不通になれば、大阪のホテルに避難していればいいのです。いわゆる社会的弱者に被害は集中します。
 阪神淡路大震災をきちんと描くことは、大変なことで自然の力の恐ろしさを受け止め、そしてそれに対応した人間社会を見ないといけません。その上で、この映画のように一人ひとりの受け止め方の違いもあります。
 ですから、この映画は主題は、大震災の全容を描くのではなくて、それを経験した子供は、その後どのように生きたのか、それを問うものです。誰にでもある幼少期の痛みに向き合う映画だと思います。
 最後のシーンで1.17に女の子は参加し、男の子はまた今度にします。そういう生き方です。
(2月5日)

冬の京都
 京都は昨年の全国映連総会以来です。あの時は桜が満開でしたが、今日は素っ裸な木々で寒そうです。
これが冬の鴨川(この表記が正解。通例として高野川と合流するまでは加茂川と標記される。ご指摘ありがとうございました)

高瀬川の辺に、ビルに混じってこんな家が(「れんこんや」というそうです。辛子レンコンがおいしいとか)

高瀬川