帰らざる日々の夢

 職場の労働組合の機関誌、正月号に書きました。
『帰らざる日々の夢』
夢のない話
 初夢を見ましたか。見たことを覚えていますか。私は、最近、夢を見たことを忘れてしまいます。
 パソコンで検索すると、夢とは「神経生理学的研究では、主としてレム睡眠の時に出現するとされ、睡眠中は感覚遮断に近い状態でありながら、大脳皮質や(記憶に関係のある)辺縁系の活動水準が覚醒時にほぼ近い水準にあるために、外的あるいは内的な刺激と関連する興奮によって脳の記憶貯蔵庫から過去の記憶映像が再生されつつ、記憶映像に合致するストーリーをつくってゆく」ものだそうです。
 眠っているときの脳の活動が夢ですから、私もおそらく夢を見ているのだろうと思うのですが、目覚めたときに忘れているのが、残念です。
 そういう生理的な眠って見る夢とは別に、将来に実現したいことや現実が変化、発展することへの期待、希望、夢にはそういう意味もあります。こちらの起きて見る夢も、長く生きていると「アアワカイコロハ、オレニモユメガアッタンダ」というように、だんだんと忘れてしまいます。
夢を持つほうが、張りのある毎日を過ごせると知っていても、現実の厳しさを経験してくると甘い現実を見るわけにも行かず、だからといって厳しさを乗り越える算段を突き詰めて考えるまでにはいきません。
起きて見る夢とは、言い方を変えれば自分に対する可能性の追求です。いつの間にか、それを放棄している自分に失望してしまいます。
それで自分ではなく、子どもや周囲の若い人に「夢を託す」などと傲慢なことを思ったりします。
 夢について、何か書こうと考えましたすが、私自身では眠ってみる夢も起きてみる夢も失っています。なんとも夢のない話です。
夢のある話
現実を変えた夢の極めつけはマーチン・ルーサー・キング牧師の「私には夢がある」という演説です。人種差別撤廃に命を懸けて取り組んだキング牧師は、一九六三年、二五万人のワシントン大行進を前に「奴隷の子孫と奴隷を所有した者の子孫が同じテーブルにつく日が来る」と語りました。
現在、アメリカではオバマ大統領が二期目を務めています。
あるいはノーベル賞を受賞した山中伸弥教授のiPS細胞研究のように、人類は生命の根源に迫っています。
現実を追い、それを変えていく夢はどんどん進んでいます。その一方で、人類は核戦争や原発事故といった悪夢はなかなか追い払うことは出来ません。
また眠ってみる夢の形をとって、面白く現実を切り取る落語や映画が作られていますので、それを紹介します。
 まず有名なのは『芝浜』です。飲んだくれで怠け者の魚屋が、金のぎっしり詰まった革の財布を芝の浜で拾い、「当分、働かなくていいや」と思っていたら、おカミさんにそれは「夢だ」と言い切られてしまう。ああ浅ましい夢を見たと、魚屋は心を入れ替えて「ひとったらしの酒も飲まず」に一所懸命に働き、表通りに店を持つまでになる、という人情話です。
 賢い女房と改心した亭主の「稼ぎに追いつく貧乏なし」という教えです。「稼ぎに追いつく貧乏神」というのも一面の真理です。
 『鼠穴』という落語は辛らつです。一文無しで田舎から出て来た弟が商売の元手を頼みに来た時、江戸で成功した兄はたった二文を渡す。それに発奮した弟は懸命に働き、立派に一家を構える。二文を返しに行き「今では励ましであったと思う」と兄弟仲良く酒を飲む。その夜、弟は「火事で一文無しになって、再び兄に金の無心をする」という夢を見る。その時・・・。
 私が好きなのは『天狗裁き』です。昼寝をしている亭主が、寝言をいいニヤニヤ笑っているから、きっと面白い夢でも見ているのだろうと、女房が起こして「どんな夢か教えてほしい」というと「夢なんか見ていない」。女房にもいえない夢を見たのか、と夫婦喧嘩に。それを仲裁に来た隣の男が聞きたがり「見ていない」というと、また喧嘩。家主が間に入るが、これも喧嘩になり、ついに奉行所へ。ここでも奉行が拷問にかけてでも白状させる、といっているところに、男は一陣の風とともに天狗にさらわれていく。
 「女房が聞きたがり、隣家の男が聞きたがり、家主が聞きたがり、奉行が聞きたがった夢の話」を「見ていない」と言い張る男に「八つ裂きにしてくれる」と天狗が手をかけた時に、「ちょっとあんた」と肩を揺さぶられて、女房に起こされるというオチになります。
 これは、覚えていない夢はどんなに面白いのかという矛盾を突いています。頭のどこかにある夢の話を、他人に聞かせるよりも自分で聞きたい気にさせます。
 落語は言葉で表現しますから、非現実的な話も表現できます。立川談笑新作落語『猿の夢』という、一段とシュールな話がありますが、これなどはとても映像的に表現できないし、要約も出来ません。
こんな夢を見た
 映画となると映像ですから、夢の再現ができます。
黒澤明『夢』(1990)は鮮やかな色彩を持った映像で、「こんな夢を見た」で始まる八つの話で構成された夢物語です。前半は子どもの頃の夢を描く「日照り雨」「桃畑」ですが、後半の原発事故を描く「赤富士」、核戦争後の地球「鬼哭」、物質文明を否定する「水車のある村」となると幻想的な夢ではなく、現代社会に対する黒澤監督の怒りです。
彼の代表的な傑作『生きる』(1952)や『七人の侍』(1954)のように、しっかりと構成された面白さがなく、脈絡も落ちもない、映像の迫力も続かない、断片的に映像をつなぎ合わせた映画で、本当の夢のようです。夢には閃きの鋭さや奇妙な味はあっても、力強さがないという弱点を感じます。
ところが、他人の夢ではなく自分の深層心理と結びつく夢は、肺ふを抉ります。
 私が数年に一回見る、そして見るたびに冷や汗を流す夢、それは「小さなリヤカーに肥たご(糞尿を入れる桶)を二つ積み、村の中をひいて歩く」夢です。
 昭和四〇年代前半、下水道など整備されていませんが、さすがに糞尿を勝手に処理するのではなく、市の職員がバキュームカーで回収していた時代。我が家は、村はずれの畑のそばに肥溜め(糞尿を溜め、発酵させて肥料に利用していた)を持っていて、時々、糞尿を補填する必要がありました。小学生であった私も祖父に言われて一、二度リヤカーを引いたことがあります。
映像とあわせて、その時に感じた屈辱感や恥ずかしい気持ちも夢で体感するのです。
夢から現実へ 
 その時、なぜそんな気持ちになったのかは、容易に想像がつきます。糞尿を扱うことが恥ずかしい、それを同級生や村の人々に見られるのが嫌、といったことです。
 今、そんな考え方は愚かであると思います。下肥(人の糞尿を肥料として利用する)は自然のサイクルに適っているし、作物にとっても最上の肥料です。小学生がそれを手伝うということは、周囲の大人から見れば賞賛に値します。
 夢を見て、当時の「そんな気持ち」を思い出すと同時に「『そんな気持ち』を持ったことが恥ずかしい」という思いが湧きあがってきて、身が捩れるような気分で、冷や汗が出てきます。
この現象は、夢は記憶の引き出しから出てくるが、それを現在の自分が客観的に見ている、ということです。同じ瞬間に過去と現在が交錯するという、まさに夢ならではの現象です。
夢から覚めて現実に帰ると、田舎でもウォシュレット付きの水洗トイレだし、圃場整備によって肥溜めもありません。衛生的で便利な生活空間が整備されています。
機械化電化が行き届き、あらゆるところにコンピューター網が張り巡らされたユビキタス社会が構築されています。そんな時代ですが、それがよい社会なのか疑問です。
この夢を見るたびに、糞尿にまみれ、泥田でひっくり返る、稲の穂先で目を突くといった野良仕事の嫌だったことを思い出します。
嫌やな思い出ともう帰ることのない風景は、夢でしか見ることは出来ません。