『野火』の感想

昨年の8月に上映したものですが、野火は何を象徴させているのだろうか、と考えてみました。
神戸映画サークル協議会の機関誌6月号に投稿しています。ちょうど1千字に収めています。長いのは読みにくい、と言う感想もあったので、長く書くときは長く書くけれども、短く端的に言いたいことだけを絞って言うのもいいかな、と思いました。
読んでみて下さい。
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生への執着 
 原野にへんぽんと立ち上る野火が、田村一等兵が置かれている局面の折々に出てきます。この小説、映画の題名である『野火』は何を表しているのか、何を象徴しているのか、ずうっと考えていました。
八月プロジェクトを担当し解説を書きました。その時に映画や大岡昇平作品を評論している本やインターネットを調べても、それを明確に読み解くものはありません。家長知史さんの講演を聞き、そのあとの交流会の時に質問も出ましたが、家長さんからも明確な答えはありません。
 的外れかもしれませんが、ここで私が考えたことをまとめてみます。

 映画は田村一等兵の視点で全てを描いています。部隊から放り出されて、フィリピンの野山を彷徨い、安田や永松と出会い、そして生還して家での食事シーンまで、彼の行動が映像化されています。
ふらふらと一人でレイテ島の原野をさまよっている田村からは「生きることに執着していない」と感じました。
頻繁に立ち上る野火の煙を見て「そこには島民がいる、島民は米軍側のゲリラ」と認識しています。彼らが日本軍の位置を知らせている狼煙ではないかと疑い、近づくべきではない、殺されると思います。
日本軍が島民を虐殺するなど恨みを買っていることを知っているから、死の覚悟はあっても「殺されに行くことはない」と見ています。
それが島民の女を殺し、塩を手に入れた頃から「日本に帰りたい」という気持ちが湧いてきます。「部隊は全滅した」と言われ、生きて日本に帰るためにパロンポンをめざして歩き始めた時に、彼の心は変わりました。
パロンポンに行けば日本に帰れるかもしれない、その思いは優しい女の手のショートカットで伝わってきます。
 そこから地獄が始まります。生きて帰れたのが三%と言う戦場で、死ぬ覚悟をしていたにもかかわらず、生への執着は田村を「人肉を食らう」葛藤で苦しめます。
それが野火の見方を変えます。「近づけば殺される」狼煙から、地獄の戦場を逃れ人間界へ戻る標と変わります。野火は「文明」の象徴になり、生還への希望に見えます。
そして故郷に帰り着いた後、レイテ島での体験はすべて記憶として刻み込まれ、野火は彼の心身を繰り返し焼く業火となり、地獄を再現します。
大岡さんは、この記憶を『野火』と名付けたと思いました。
憲法九条のもと、日本は直接戦争に加担せず、そして戦争体験者は亡くなっていきます。記憶は薄れ、今の日本は戦争を弄ぶ政治家に鈍感になりました。