映画『Fukusima50』の感想

 

テーマは何か

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3.11の日に『Fukusima50』を見て、ちょっとがっかりして帰ってきました。東日本大震災によって福島第1原発が破壊されたときに、発電所にとどまって原子炉の大爆発を防いだ人々を描く映画です。

渡辺謙佐藤浩市、緒方直人、火野正平平田満萩原聖人吉岡秀隆佐野史郎段田安則金田明夫田口トモロヲなど脇役も含めてそうそうたる男優陣が揃っていて、いずれも熱演しています。安田成美、富田靖子などの女優は清涼感あふれるスパイスでした。

死をも覚悟して踏みとどまったFukusima50の英雄的行為は、それはそれで感動的ですが、映画全体の骨組みが非常に弱く感じます。それは原発事故直後の5日間を描こうと汲々とした感じで、「3.11」を忘れてはならないという中心的な主張が矮小化されていると思うからです。

原発建設中の工事映像が少し挿入されますが、事故当時を現在とした場合の現地の人々の過去、現在、未来の状況、反応が不足です。住民と従業員の心情の吐露もありません。

今回の事故の直接の原因である震災や津波に対する不備は人災であり、その批判は反映されていません。しかもこの大惨事に対して、9年を経た現状の政治や日本全体の認識等も描かれていません。

原作や脚本の弱さと言ってしまえばそれまでですが、震災直後の5日間だけでは福島県の「3.11」を語ることは出来ません。

不眠不休で

 福島第1原子力発電所で働く多くの人々にとっても、今回の事故は全く想定外であったでしょう。大津波が襲う可能性は指摘されていましたが、東電幹部はそれに備える対策を取らず、おそらく社内的にも周知していなかったと思います。

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地震津波によって、原子炉も含めた発電所全体が浸水し破損しますが、事故がどのように進捗するのか、それに対する適切な対応方法もわからない、ところから始まります。

 津波による予備電源も含めた全電源喪失という事態になったときに従業員全体に戦慄が走ります。原発の仕組みをよく分かっている人ほど逃げたくなったのでしょうが、映画では下請け会社(協力会社)の社員も含めて、誰も逃げません。

操作室に原発の事故対応を「止める 冷やす 閉じ込める」という標語が大きく書いてあります。原発の機器はすべて電気を使って制御する仕組みです。それだけでなく原子炉内部の状況把握も電気が止まればほぼ無力になります。

壊れた施設を人海戦術で片づけ、復旧をめざします。所外から電源車や消防車を配備して電気と水を供給します。自衛隊や消防、警察にも協力を求めます。

全員不眠不休の大奮闘です。緊迫した時間が続き専門用語も飛び交いました。見事な映像表現です。

周辺住民の避難も挿入されています。

人間ドラマになりえていない。

 

 緊急対応と応急措置でも原子炉の暴走を止めることができず、原子炉格納容器の圧力がどんどん上がり爆発の危機が迫っています。圧力を下げるベント(放射能を含んだ容器内の気体を放出)を決行します。手動で弁を開けるために放射線の高いエリアに行く決死隊を募るところが最大の山場です。

当直長が先頭に立つ覚悟を決め、何人かが「若い者には行かせられない」「エフイチに育てられた」というセリフとともに志願します。

吉田所長や総理大臣は、のべつくまなく怒鳴り散らしますが、実際にそんなことであった思います。しかし周囲の反応がもう一つです。

菅直人元総理大臣も言っていますが、官邸と連絡役となった東電幹部が情報を挙げてこないし、質問にも答えられない状態であったようです。ですから総理大臣自らが原発を視察するという「無謀」な行為に出たといいます。そして「撤退等ありえない」と叫びます。

吉田所長も本店の対策本部からの指示などにいら立っています。

なぜそうであったのか、映画はそれには答えていません。

最前線の人々の率直で英雄的な態度と本店の愚かさだけを描くのでは、人間ドラマにはなりえません。ちぐはぐな感じです。

その核心的な部分は、もしかしたら東電がいまだに公表しない最初の24時間のテレビ会議に秘密があるのかもしれません。

いよいよ原子炉の暴走が手の施しようがない、とあきらめたときに、なぜか極限の所で爆発は回避されます。

大量の放射性物質は放出したけれども、所長も総理大臣も考えた半径250㎞圏5000万人の避難は免れました。

違和感を持つラストシーン

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 2年後吉田所長(渡辺謙)が食道がんに死に、伊崎当直長(佐藤浩市)が満開の桜の下で「俺たちは間違ったか」という会話を思い出します。「慢心があり、自然を舐めていた」といいます。しかしそれは地震津波に対するものなのか、原子の力をコントロールしようという考え方なのか、はっきりしません。

現実社会では、安倍政権下では原発の海外輸出が企てられ、再稼働も進められています。 渡辺謙が「僕らはこの映画で答えを出したつもりはありません」「反原発を謳う映画ではない」と言っています。門田隆将「死の淵を見た男」が原作ですが、これで国民全体が吉田所長の感じた「死の淵」の恐怖を共有できるもの、となったのかが疑問です。

偶然の奇跡によって原子炉の爆発はなかった、でも9年たって「アンダーコントロール」どころか現状は大変です。事故の全体像が解明できていない、原発の解体・廃炉作業も大幅に遅れている、そんな現状に即していない、と思いました。なによりも恐れと謙虚さが見た後に伝わってきません。