市民映画劇場2021年7月例会作品です。機関誌に投稿したのですがここに載せるのを忘れていましたので、遅ればせながら載せます。読んでください。
私の中では非常に高く評価しています。
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告発が尊厳を回復させた
成熟した民主主義の法制度を持ちながらカトリック教会の影響力が大きい社会(例えばフランスやイタリア等)における、個人と教会、神父の感情的心理的な関係がどのようなものか、よくわかりません。
この映画のように、普通の社会人が教会の犯罪を告発する「勇気」を持つのはどの程度の踏ん切りがいるかです。
過去を振り返ると、キリスト教は地動説や進化論を否定して科学と科学者を弾圧してきました。バチカンは秘密裡にヒトラーと手を結ぶ等もやっています。女性蔑視があり避妊や堕胎、同性愛、離婚などの禁止という個人の問題に介入して、社会的規範として制約してきました。
生き方を規制する大きな圧力です。
権力と宗教が結びつくと「個人の尊厳」を著しく損なうという、歴史がありました。そこから政教分離という現代政治の原則が生まれます。
宗教は否定しませんが、人間よりも神の権威を振りかざす信仰は良くない、と改めて思います。
現在では一般的な市民と教会の直接的な権力関係利害関係はないでしょうが、30年前のフランスでは、影響力は大きく、家族ぐるみの信仰の下で、思春期に生じた心の傷は人生を左右しました。
そんな困難を克服するものを、この映画は提示しています。重苦しい感じを持ちながらも明るさが見えました。
三人の登場人物
『グレース・オブ・ゴッド』はカトリック教会神父による児童性虐待事件を扱った映画です。フランスの実際の事件であり、映画製作の時期は裁判が進行しているという生々しさを持っていました。それをフランソワ・オゾンは「異常な性犯罪」「カトリック教会の腐敗」に留めず、フランス社会や人間のさまざまな面を慎重に描いたと思います。
銀行員として地位も家庭も築いていたアレクサンドルは、三〇年前彼が小学生であった頃に、性的虐待を加えた神父が、まだその地位にいたことを知ります。思い出すのも嫌な経験ですが、子どもを守るために、自分の身をさらして、その教区の責任者、バルバジャン枢機卿に神父を「教会から追い出すよう」告発します。
彼は熱心なカトリック信者でありフランシスコ教皇が発する言葉を信じていました。しかし、それは裏切られます。
児童に対する性的虐待は犯罪ですが、彼の場合はすでに時効となっていました。彼は警察に告発します。
それを契機に警察が動き出し、時効になっていない被害者を探し始めました。そしてフランソワを見つけます。彼も心の傷を負い、無神論者になって教会と関係を断っていました。彼はカトリック教会に鉄槌を下すために、警察に協力するだけではなく、同じ被害者を募って「沈黙を破る会」をつくります。マスメディアを使って、社会全体に訴え、被害者が声を上げるように促しました。
そこにてんかん症を抱えたエマニュエルが現れます。小さいころから優れた頭脳を持ちながら、虐待により受けた心の大きな傷のために、彼は破綻した人生を送っていました。それが原因で彼の父母は離婚しています。
前の二人は家庭を持ち、一定の地位、財産を築いていましたが、エマニュエルは彼らと違う階層の人間です。バイクを飛ばす彼を見ていてハラハラしました。
映画は、この三人とその家族、彼らの周囲の人間を少しずつずらして描きます。親子関係兄弟関係、友人関係の距離感、教会への思い等の違いは、見事な調和だと思います。
そしていずれも親世代との違いは明快です。
声を上げる、仲間を募る
アレクサンドルは三〇年を経て告発する決意を固めました。フランソワは被害者仲間を募って「沈黙を破る会」をつくりました。エマニュエルは彼の人生を狂わせた教会の罪の重さを訴えます。
権威に対して声を上げる勇気と仲間作り、マスメディアの利用、自由な発想での闘い等、団結と連帯の力を見せます。それでいて個人主義的な面も見せました。
その闘いの場で、彼らの傷が癒されていきます。尊厳が回復していくようです。
カトリック教会神父という立場を利用した異常な児童性愛者がいた、それをわかっていながら教会は働かせ続けた、そういう組織とそれを支える奥にある人間の暗いものも批判しています。
この映画は、性的指向性や性自認などマイノリティの人権は認めながら、それと反する性犯罪を指弾します。人間性の復活と癒しをフランソワ・オゾンは描きました。これがフランスと思います。